すべては、生まれて消えていく 日々是修行 佐々木閑 |
実は、仏教が考える「時間の流れ」もこれと同じだ。私たちの世界は、本当は.一瞬ごとに生まれては消え、生まれては消えを繰り返している。その、刹那ごとの点滅の連続を「時の流れ」という。だから時間というのはスーツとなめらかに流れるのではなく、ブツプツ途切れながら進んでいく。たとえば私という存在も一瞬ごとに生滅している。前の瞬間の私と、次の瞬間の私は別ものなのだ。
ただし、そこには「コピーの法則」というべきものが働いていて、特別なことがない限り、同じ私の姿が、次々にコピーされながら続いていくので、まるで一人の人物がずっと生き続けているように見えるのである。しかし、一枚の絵を繰り返しコピーし続けると、少しずつプレが重なって、画像が狂ってくるのと同様に、刹那刹那のコピーが繰り返されるうちに、私という存在も少しずつ変形していく。気がつけば、生まれた時の赤ん坊とは似ても似つかない、オジサンの姿に
なっている。このような、避けがたい崩壊現象を「諸行無常」というのである。
時間という特別なものがあって、それに沿って物事が進むと考えるのではない。そうではなくて、すべてが生まれては消えていく、その「諸行無常」の世界を、私たちが「時間」としてとらえているだけなのである。′そして、その「生まれては消えるすべてのもの」を仏教語では有為と呼ぶ。仏教が目指すのは、、「有為の奥山」を越えたところにある、平安の境地なのである。
(花園大学教授)