定年後の楽しみ方 ガイド:工藤 宇一 |
老年をたのしむ
朝起きると、かみさんが食卓の上に新聞を広げ、はしゃいでいる。
「このコラム、貴方のことを書いているようよ」と、朝食を食べる前に読めといってきかない。
「コーヒくらい飲ませろよ」
2003年1月23日付日経新聞文化面にある
作家 中野孝次さんの「老年を楽しむ」と題するエッセイであった。
老年とはどうやら悪い年齢とは限らないようだぞ、もしかすると人生の一番いいときかもしれないぞ、とあるころからわたしは考えるようになった。老年にはむろん悪い面は多々ある。
体が劣える、記憶力が減退するなどの例をあげた後
が、それらすべてを補ってなお余りあるよい面が、老年にはあったのである。それは時間のすべてが自分のもので、何をしようがしまいが自分の自由だということだ。これほど恵まれた状況は人生にかってなかった。
中略
もっとも誰しもがわたしと同じように感じているわけではないことにすぐ気づいたが。人によってはそれをよろこばず、自分を社会で必要とされなくなった無用者と感じて、虚脱感、無力感に陥る人もいたのだ。老年の受け取り方もさまざまだったのである。
読書、執筆、碁と自分の好きに生きることに徹底されている日常生活に触れられた後、唐代禅僧の時間についての考え方を紹介している。
暦の時間だと、時間とは、永遠の過去から無限の未来に向かって棒のように延びたものである。人はその棒の中の七十年から八十年を生きるに過ぎない。はかない、短い、という感じがすぐするが、それはそういう時間観念で時をはかるからだ、と唐の禅僧は言う。
われわれの生きているところをよく観よ、昨日は既に去って無く、未来は未だ来ずして無く、在るのは「今ココニ」という、永遠に直接した絶対的現在だけではないか。いま自分の生きている一日がすべてである。その時に徹底して生きよ。それ以外に人の生きる時はない、と彼らは異口同音に言っている。
続いて
わたしは老年になっての日々を重ねるうち、そういう時間を観じるように自分を訓練し、今ではそれが完全にわたしの時間感になった。
このエッセイを、月一回定期的に行っている勉強会で紹介した。私より二、三歳年上の方の「その通りだな」との感想に対して、私より若い現役の方は「このエッセイ、読んでいたのだが、こんな感じでは受け留めなかった」と言っていた。
学ぶことが多いエッセイなのだが、現役の方にとっては見過ごしててしまうのかもしれない。
我が家の場合は、私の生き方について著名な作家のお墨付きをもらったというところである