こんなにドラマのある人とは、知りませんでした! 日経新聞 |
池田久美子は「天才少女」と呼ばれでいた。初めての海外遠征は中学3年で出場した東アジアジュニア選手権(台北)。中学生は池田だけだったが、「スーツケース」にパスポートを入れたまま預けて大騒ぎ」の思い出とともに6㍍19の中学新を残した。
学6年時の全国小学生陸上では、のちに二〇〇三年パリ世界選手権男子二百㍍鋼メダリスとなる男子の末続慎吾(翠ミズノ)に走り幅跳びで勝っている。中1で5㍍97を跳び、6 .㍍に到達した中2で日本選手権に初出場。全国中学校体育大会(全中)は史上初の3連覇を飾り、山形・日大
山形高1年で迎えた一九九六年アトランタ五輪も「自分では当然、出場するものと思っていた」。
しかし、高校で始めた慣れない下宿生活が天才の行く手を阻む。体重が12㌔増えて不調に陥った。宮城・仙台育英高に転校し、一度は国体を制したものの、自身の中学記録を高校3年間で超えることはなかった。
〇六年八月に虫垂がんのため死去した森千夏(女子砲丸投げ)もその一人だった。スズキの同期入社で親友同士だった二人は、北京五輪に一緒に出てメダルを取る約束をしていたという。約束はもう一つ。亡くなる前年、18㍍22の日本記録を持っていた森は池田に宣言した。「私はいつか20㍍を投げて金メダルをとる。無理でもとるつもりで頑張る」。池田が応じた。「それなら7㍍を跳んでみせる」〇六年五月の大阪GP亡き友との約束胸にで6㍍86を跳び、池田は初めて日本記録保持者になった。同年十二月のドーハ・アジア大会で金メダルを獲得、アジアの女王から世界へと駆け上がるかに思えたが、昨夏の大阪世界選手権では予選落ちの辛酸をなめた。