私の履歴書より 谷川 健一さん お父さんについてです |
院長が帰ったあと、私たち子供たちや近親者が父に挨拶をした。その間終始無言でうなずいていた父は、口を動かした。何を言っているか聞きとれないので、病室にあっまった一同はかたずをのんだ。すると雁の娘が「おじいちゃんはアイバンクと言っていなさる」と叫んだ
それまで、父は自分の死後のことも、遺書めいたことも一切口にしなかった。そうして私たちが到着した死の二時間前から、荘重な訣別の儀式をはじめたのだった。
それは明治人としてのみごとさ、家長としての義務と権利を一切にぎったものだけが演じ得る儀式だった。明治人の気骨は科学にたいする信頼を失っていなかった。それは父の中にも、まだ残り火のように燃えていた。 (民俗学者)