父権制の崩壊あるいは指導者はもうこない 橋本治著 |
なかなかの慧眼ですね、
<抜き書き>
by nandemokoukisin 検索
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2019年 06月 08日
読了しました。なんだから、問わず語りみたいな感じで・・・すぐはぐらかせられますが、
なかなかの慧眼ですね、 <抜き書き> ・「戦後の学校給食のおかげで日本人がパン食になれて米の消費量が減った」という話もあるが、私なんかは、米の消費量が減っていく背後には、「自民党政府が農村部に偏した政策をとっていたことに対する、都市部住民の潜在的反感」というものがあったかもしれないじゃないかと、邪推してしまう。 ・民進党ーあるいはその前身でもある民主党という政党が、政党としての一体感を持てずすぐバラバラになってしまうのは、「有力なリーダーがいない」というよりも、「リーダーに従う」という能力を、メンバーになる人間達が持てない結果だろうと思いますね。 ・世界中で、「父親の物語」はもうはやらなくなっているはずで、日本には「父はお前達を守るために特攻機に乗って死んでいった」という復古物語もあるが、しかしアメリカのヒーローものほど「死んだ父」は活躍しない。・・・・多くの国が第二次世界大戦でダメージをうけて変わっていったのに、アメリカばかりは勝者となって変わらなかったことの結果だろう。 ・政治改革で必要なのは、政権交代のための人数集めじゃない。新しい政治を担うための人材育成だ。それをしないでよそから中古の既製品を掻き集めてどうなるんだ? ・父親たちが、 息子たちの進路を阻むからである。 当人たちにそのつもりはなくとも、 「阻んでいる」と思われてしまうのは、「穏健な常識人」が、自分たちの知る「常識」の外にあるものをイメージできないからで、そのことによって前に進もうとする息子たちの壁になる。壁になっていて、しかもそんな自覚が父親たちの間に生まれないのは、彼らが「当たり前」の中にいるからだ。 ・一番簡単な説明は「若者とは常に反抗するものである」という考え方で、これは間違っていない。・・・・・ただの反抗か?と言うのが大多数で、そういう人たちは、もっと確かな理由が欲しい。そこに出てくるのがドラッカーで、「今は断絶の時代なんだ」と言われてしまえば、「そうなのか・・・・・」という納得がなんとなく訪れる。 ・豊かさは、「 当たり前であること」に対する懐疑の念を育てる。豊かさがなければ、当たり前」に対する懐疑の念が広く共有される事は起こらない。なぜならば、「当たり前」というシステムは豊かさによって実現され、人はシステム化された「当たり前」に拠って生きるのだ。豊かさが可能にする「当たり前」状態は、そこに当然のように懐疑を生む。なぜかといえば、人は「自由」とか「便利」というものをあたりまえのこととして手に入れてしまうと、「もっとそれを」と思ってしまうからだ。 ・人間の欲求不満を満たすための豊かさは、そのことによって常に「もっと、もっと」の欲求不満を生む。だから豊かさは、必然的に新しく生まれる欲求不満を解決するために、さらなる豊かさを目指す。 ・だから「若い美人の女政治家」や「おしゃれな女政治家」だって当たり前だ。それが当たり前にならないのならそれは日本の特殊事情で、特殊事情を前提にして「美人だ」「若い」「おしゃれだ」と外国の政治家を持ち上げているのは、後進国性を丸出しにしているようで恥ずかしい。 ・中央政府の地方に対する蔑視があるということで、だからこそ「認めない、無視する」のパワハラを可能にする下地があることになる。 ・我々は、自分たちが「当たり前」と思っている状況になかなかメスを入れられない。何故かといえば、我々がその「当たり前」を前提にし、依存して生きているからだ。当たり前にメスを入れられないということが、「当たり前」を抑圧的な加害者に変えてしまう。 ・かつて組織は、上に立つ「えらい人」がつくるものだった。だから原則として、上から下まで日本の忠誠心が通っている。かつての組織はそういうものだった。・・・・・「個人」が公然と口をききだしたらどうなるのだろう?「内側でしか通用しない言語」で自分たちの弁明を外側に向かってする人間が、「嘘臭ェ!」と非難される現在になる。 ・上に立つ者は「俺の意思は組織全体の意思だから、外がなんといおうと、俺は俺の言い分を貫き通す」と考えている。しかし、組織を構成する下の人間たちは、「その考え方には無理がある」と考えている。 ・昔だと組織の構成員は、「生まれた時からあそこにいたのか」と思われてしまうほど、組織の考え方に忠実だった。忠実でなければ怒られた。しかし今や、組織を構成する人間は、「組織の人間」になる前に、「自分なりの考えを持った一個人」になっている。つまり、「組織の要求する考え方とは違う、自分の考え方を持っている組織外の人間」という一面も持ち合わせている。 ・1年前、あるいはそれ以上前から問題になっていた森友学園、加計学園の総理大臣がらみの不明朗さが国民から忘れられることなく、未だに決着がついていないのは、そこに「自分の立場を過信したトップ=総理大臣」がいるからですね。 ・あきれるべきは、総理大臣の「我慢強さ」か、鈍感にしていられる能力」ですね。でもおかげで、日本の社会は変わるかもしれない。強固な組織がぐずぐずになって、「正直にならなければアウトだ」という、一番シンプルな原則が浮かび上がってくるかもしれない。組織は一切を丸め込んでしまうけれども、「個」である人間が他人と共に何かをやるとなったら、信頼関係を個々に成り立たせるしかない。ぐずぐずした崩落の後で、そういう時代がやって来るのかな、とは思いたい。 ・長男への耕作地の独占的相続と、父親を中心とする家族の労働によってその雰囲気が形骸化して残っていた「もう存在しない家父長制」が、無化してしまった。つまりは、「父親の権力基盤を支えていた下部構造の消滅」というわけである。 ・死んだ翁長沖縄県知事を悼む言葉で、彼は沖縄の発展に尽くした」なんてことを言ったけど、彼が命を賭けたのは、そういう総理大臣がネグレクトした「沖縄の基地撤廃」だったと思いますがね。 世界と話をするのか?「地元に賭博場作るから来てね」と言うのか? 世界に混じって薄汚い大物になるのか? なんか間違ってない? と私は思いますね。 ・「家父長制」を規定する民法の規定が国民の上にかかり、「お父さんがえらい、男はえらい、だから他に対する説明能力がなくてもいい」というバカげた慣習が出来上がってしまった。それで、いつまでも終わってしまったものの亡霊にこの国は祟られているというわけだ。 ・古代日本の女帝は、 ヨーロッパの女王と同じように、「 王家の娘だからを王家継承権はある」で即位した。 ある意味、「 王や天皇は特別な存在だから、その血を引く子供たちにも男女差別は起こりえない」 というまっとうな法則に基づいている。 それが、明治になって「 天皇は男子に限る」 という安っぽい男性優位主義が起こり、 ついでに古代の女帝たちを「 実質がない」という切り捨てをしてしまったのはなぜか? ちなみに、あの大法律令制定の中心にいたのは、譲位して上皇になっていた持統天皇である。そういう歴史をいい加減に直視すべきだ。 ・なんでも中国風にすればいいと思っていた奈良時代の日本は、「 女は皇帝になれない」 という中国スタイルを取り入れなかったが、 明治の男たちは中国流の男尊女卑に逆戻りしてしまったらしい。意外なことに、日本は根っこのところでヨーロッパと同じで、男尊女卑の中国やイスラム圏とは違う。 ・さてそれでなんなのかと言うと、「特別な人」とみなされた女性は国の頂点に立つ事ができるが、ただそれだけだとことだいうことだ。・・・・女性を起用するという発想自体がない。別の日本語を使えば、女性の担当は「奥」に限定されて、外の男社会と向き合う「表」は女の担当ではない。そのように、男は主で女は従だから、女は男を補完する存在であるというのは、長い間の人間社会の慣習法のようなものだった。 ・そこに「女らしさ」という常識の境界線があれば、いちどはそこから逸脱ししたとしても「そこに戻ればいいか」というゴールが見える。しかし、「女らしさ=抑圧」として、この常識的な決着点を永遠に破壊してしまうと、「戻るべきゴール」が見えなくなってしまう。つまり、自由になったのはいいが、その先は漂うだけでゴールが見えない。まるでだけどの内宇宙をさまようような不安感が、いつまでもつきまどうということだ。 ・だからなんなのかと言うと、「両性の合意のみによって成り立つ」の結婚は、その「合意」が怪しくなって「話が違う!」になったとき、たやすく破綻してしまう。どうして結婚という「両性の結合」がもろくなってしまったのか?・・・重要なのは、「両性の合意のみ」でよしとしたときに失なわれてしまったものーーつまり「家」という、結婚によって機能する抽象概念なのだ。 ・統治者としての天皇の神格化、絶対化とともに、それまであった一般の家のあり方にも介入して、、家長を絶対化する家長制度を作った。この事によって、日本の男のあり方は、江戸時代よりも後ろ向きになった。それまでは「なんでもないただのオヤジ」だった男に家長という無駄な権力を与えたので、妻や娘たちは江戸時代よりもひどい苦痛を味わうようになった。「民主主義」という理由だけで馬鹿にも発言の自由を与えてしまうと、言論が荒れると言うのと同じ現象だ。 ・いきなり大胆にもこの全部をまとめてしまうと、もう「家」そのものが実質的な機能を失っている以上、一人の支配者、一人の統治者であるような家長に、全体を統率する能力は宿らない。近代の民主主義は、権力者をその基盤から解体してしまった。だからもう実行力を持った指導者が現れない。しかし人は、まだ「力を備えた一人の指導者がやってくる」という幻想から離れられない。 ・世界には、国民の考えから乖離してしまった独裁的な力を持つ権力者が頻出している。アメリカでもロシアでも中国でも北朝鮮でも、日本でも。内向きで周囲の耳に周囲の声に耳を貸さない人だけが指導者になれるというのは、時代がそこで止まってしまっているからだ。もう一人の人間に権力を預けて「指導者」と言うのをやめて、代表者が複数いてもいいあり方を検討すべきではないでしょうか。 ・手近なところでは、別姓であっても夫婦がうまくやれて、二人で構成するものの代表者を無理に一人に限定しない。そうして物事が円滑に進むように、人間は成熟しなきゃいけないんじゃないでしょうかー遠いか近いかはわからない未来の話ではありますけれどね。
by nandemokoukisin
| 2019-06-08 17:04
| 読書ヒストリー
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