高齢者の孤独と豊かさ 竹中星郎著 |
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2019年 03月 20日
いい本だね〜、ずいぶん前に、こんな良い本が出ていたんだ。
なんか、考え方がバランスが取れていて、自然な感じがします。 これを教えてくれたのは、勢古さんの本だったかな? 「定年バカ」 勢古 浩爾 (著) でした。教えてくれて感謝です。 <抜き書き> ・巷に流れている「・・・・するな」といった戒律や「・・・・すべし」という説教には違和感があった。もっと自由に生きたほうがいい、健康法や生涯教育などクソ喰らえだと思っていたが、精神科医がそれを言うのは憚られた。しかし多くの高齢者の生き方を見て、必ずしも間違いではないように思えるようになった。 ・新藤兼人は、老いの先には「死」があるが、老人は死にたくない、生きたいと思っている一方で、死に対する覚悟も持っていて自分らしく死にたいと思っていると述べたあと、老人がこのような恐怖を克服して、精神的安定をはかるよりどころは仕事なのだどした主張する。 ・一人ひとりが特異である、という一般的な命題は高齢者ではとりわけ重い意味を持っている。 ・塩分やコレステロール値、血圧などの数値の多くは、成人、それもせいぜい40代50代について脳梗塞や心疾患などの発症率と生命横予後との関連を調べたものに基づいている。・・・・脳出血を起こすことなく80歳になった人に向かって塩分制限を説くのは戯画的なのである。 ・「ボケ恐怖症」をあおり人々を予防にかきたて、「ボケ恐怖症」が人生の最終段階を生きる課題であるかの如くに説くのは、高齢者をおとしめていると言わざるを得ない。 ・つまりどのようなボケ予防に取り組んでも、アルツハイマー病になる時はなる。したがってそのようなことにとらわれないで、自由に生きることが最も大切である。その人のそれまでの生き方にふさわしい老いを考えることが老年期の最大の課題である。 ・彼らはこれまでの人生で、喜びの後には悲しみが訪れることを知っている。成功の後には挫折や失敗が、そして幸福と不幸は隣り合っていることを経験を通して知っている。老いは、人に対するおおらかさや暖かさ、物事を一面だけで判断しない知恵を身に付け、多くの人との交わりで身につけた人の本質を見抜く眼力、誤りや偽りでさえ許容して包み込み、人はそこに安らぎを感じる、ような人間性をもたらす。それが望ましい老いといわれたり理想像とみなされるものであり、老年期の課題である理想像とみなされるものであり、老年期の課題である統合なのである。 ・松田道夫は、80歳をすぎてから、何もしないでぼんやりしていることが気持ちいいと感じる、特別養護老人ホームでただ寝ているだけの高齢者の気持ちが分かったと記している。 ・補聴器を使うと、こちらが力まないで話せる。本人も自分の声が聞こえるので自然と多弁になる。補聴器は周囲の人たちに必要なのである。 ・「病気の時に多くのことを学んだ。あんな自分にいろんな医療関係者が治療に関わってくれるとは思ってもみないことだった。それまでの自分の世界以外にこんな世界があるのだと感動した。」、喪失体験をバネに、新しく老いに向かい合う人もいる。そこに至るには時間がかかるにしても、豊かな老いを約束されているといっても過言でない人生のエピローグである。 ・彼は、人ごみの中に自分を知っている人がだれもいないということに孤独を感じ、自分と過去を共有する旧友と出会うことで、甥の孤独とはそういう人がいなくなることだと知った。そう記して、老いとは自分の過去を知っている人がいなくなるという真の孤独なのだと言う。(人生についての断章)中野好夫著 ・協調的な性格ゆえに、気を遣い疲れるのを嫌って人々を、身内でさえ避ける場合もある。彼らの家族に気を遣かうのを嫌がったり、彼らに気を遣わせるのには忍びないと遠慮する。このような生きかたをを選択するの!は、必ずしも自閉的な人ばかりではなく、社会的な活動に積極的に参加する知的レベルの高い人が多い。 ・子供が一人でいられるのは、親がそこにいるという暗黙の保証があるからだとわかる。それは、単に親の姿が見える・見えないということではなく、愛情に裏付けられた安心である。一人でいられるのは、ひとりではないことを保証されているからである。 ・一切の社会から隔絶された孤独に心の安らぎを実感している。そしてこれまでの人生を振り返りつつ、「この世におけるいっさいはたえざる流れのうちにある。そこではなにもの不変の形を持ち続けることなく、外界の事物に執着する私たちの感情も必然的にそれらの事物と同じように移り変わっていく」(夢想記)ジャンジャック・ルソー ・鴨長明は1204年に出家して大原山に隠遁する。しかし堀田は、長明の隠遁と無常観の実体あるいは前提は、異常なまでの熾烈な政治に対する関心と歴史感覚によるものとみなす。世捨て人といっても単純ではないと強調する。 ・しかし嫁の立場から見ると、そこに至るには家族の歴史があることがわかる。虐待と言われる問題の多くはこのように極めて濃厚な関係の中で生じている。・・・はじめから介護する気持ちがなく、意志を聞くこともなく親を老人病院いや施設に入れた人たちは虐待とは言われない。あまりに一面的なのではないか。 ・取られ妄想は高齢者の発するSOSサインであったが、攻撃的なため、かえって感情的な反発を招いてしまった。 ・健康であることは望ましく、病気を予防する取り組みも大切であるが、それが80歳・ 90歳を生きることの中心的な課題なのではなく、その人がそれまでの生にふさわしく生きることを模索し、社会がそれを支えることこそ大切である。 ・同居している家族が高齢者の介護に自分の生活の全てを捧げるのは不自然である。高齢者の介護とは、次世代が社会全体で担うべき課題であり、家族とりわけ同居している家族の方に背負わせる問題ではない。 ・死はタブーではない、死が間近に迫っている高齢者は、死の恐怖におびえているかというと必ずしもそうではない。兄弟などの身近な人の死を知らされた時、中年期・初老期のように同じ世代のものの死に衝撃を受けることは少なく、配偶者の死に際しても、意外なほど恬淡としていることが少なくない。 ・堀秀彦は、80歳を過ぎたら死の光景が変わったと述べている。それまでは自分が死に近づいていくと思っていたが、80歳を越えたとたんに死のほうからどんどん自分に迫ってくると感じる、と。 ・健康法と呼ばれる死を忘れるための生の賛歌は、必ず肉体に起こる「老人性疾患」によって中断される。ごこから老人問題がはじまるのであり、健康な感覚を持っている人たちの生の享受は永遠と今との接点を意識させないと断じて、「彼らがどれほど年とっていても永遠と今後の問題に向き合っていない」と結論する。・・・「人がいかに生きるべきかを、初めて切実に考えねばならぬ時が来たのだ。このときほど、身についた生き方がものをいう時はない」として、信仰を持っている人、死して名を残すと信じることができる特権的な人などをあげる。 ・「生命飢餓状態に置かれた人間が、ワナワナしそうな膝頭を抑えて・・・・観念的な生死観に求めるものは何か。何か、この直接的皆激しい死の脅威の攻勢に対して、抵抗するための力になるようなものはありはしないかということである。それに役に立たないような考え方や観念の組み立ては、すべて、無用の長物である」と断じる。 ・「人間にとって何よりも大切な事は、このあたえられた人生を、どうよく生きるか・・・・死を前にして大いに生きいるということが、私の新しい出発になった」 ・人は生きる意欲なしに生きられない。・・・しかし、生きることの中身が問われる高齢者にこそ、今を生きていると実感できることが大切である。それは己のためであり、人とのつながりを通して確認できることでもある。だがそれを実感できなければ、生きてはいけないのだろうか。老いは、いつもそのような究極の問いを投げかけてくる。 ・痴呆の早期発見・早期治療を訴えて精力的に保健活動に取り組んでいる人たちもいる。そこにも問題がある。だが痴呆、とりわけ今日の中心的課題であるアルツハイマー病に対しては、どうか。 ・高齢者にとってのアンチテーゼは、若さでなく老いである。高齢社会でもで求められていることは、90歳になっても60歳と同じであれと望むことではなく、他の年代にない課題に正面から向き合うことである。 ・人生の最終段階で痴呆という障害を背負わされた人に対して、「ああなりたくない」「ああなったら死んだほうがましだ」という社会こそ異常ではないだろうか。彼らはそれまで社会の中で働き、家族に尽くしてきた人たちである。彼らのそれまでの人生の歩みにふさわしい生を全う出来るように努めることが、高齢社会の課題なのではないか。痴呆のひとは「欠落」だけではなく、知能や人格、感情を保持している存在である。一人一人の歴史性や個性は失われていない。そのことに目を向けず痴呆を語ることは、人としての認識を欠いている。 ・いい顔とは、 どういう顔をいうのだろうか。 深い思索に満ちたものか、 いきいきと輝いている顔か、 穏やかな顔か、 曇りのない天真爛漫な顔か。 そのどれもが当てはまるのかもしれないが、老人にとくにそれを感じるのは、豊かな年輪が映し出されているからであろう。 ・老いとは、このような精神の軌跡が凝縮して現れる時期である。前にも紹介した里見弴の「自分の一生は何のためにあるのか、何のために生きてきたんだと考えることは、一度やニ度じゃだめなんだ。20代で考えたり、30代で考えたり40代で考えたりしてだんだんその考えに厚みがついてくる」という言葉は、80歳を過ぎた彼が、それまでに生きてきた道筋をよくあらわしている。 ・年をとることは、その人の心を豊かにする。生涯を脇役に徹した花沢徳衛は、「・・・・・いちども自分が脇役だと思ったことはない演技を手本せず、実生活お手本とするということを、近代俳優術の想像理念の原点だと考えれば世の中は一人ひとり違った問題を抱えた主役が集まってできている」と述べ、しかし俳優になった当初から、そういう考えを持っていたわけではなかったとも記している。高齢者の言葉は、彼や彼女の生きてきた歴史を背景にしているからこそ含蓄がある。 ・堀秀彦は82歳の時の著書「石の座席」の中で、「人生をどう考えたらいいのか?ここ十年ほどの間に、この問題について私に解答を与えてくれた著書と本、それはミッシェル・モンテーニュとその著書「随想録」三巻だ」と言い切っている。 ・堀は「人生の師」と呼ばれるに値する人なり本なりは、人生の晩年になってその師として定着するという。青年期や壮年期の読書や思索はあまりあてにならない。 ・老人には老人の世界がある。その世界の中で、自由に遊べる世界をみつけだし、創りだすことだ。そしてこの事は、とてつもなく難しい。老いて学ぶのは、老いを忘れるためなのだ。老いを忘れるためには、若者達の乱雑な世界をまず無視することだ。「時勢に遅れる」なんて、つまらぬ心配をしないことだ・・・・時勢を超越したと考えたほうがいい・・・・老人学校に出かけるのを止めはしない、だが、それよりか、今晩の晩飯に何を食べるかのほうがもっと痛切なことだ。 ・「老人の前には、遠からね死が立ちはだかっている・・・・それでも年老いた性をすてきれないということは、性と死がどこかで結びついているからであろうか・・・それとも・・・・性をすてきれないのは・・・・性と生がかたく結ばれ、性が生きていることの一つのしるしでもあるためであろうか」と問いかける。堀秀彦氏 ・堀秀彦の本から伝わってくるものは、老いを通して人間を考える姿勢である。彼の哲学は、みずからの老いを体験し、それをみすえることで深められ、結実していったといえよう。そこで語られているのは、老いたことで初めて手に入れることができた人生や人間についての思索なのである。 ・富士正晴・・・老い万歳と叫ぶ。彼はそれを一休にならって「ヒコバエ」と称する。老人の性の欲望を、木の根もとや切り株からチョンとはいて出る小枝にたとえている。 ・歌舞伎の世界は、年をとって初めて獲得できる芸がたくさんある。老いが人間についての見方を深め、役者がそれを演技を通して表現する。しかしこのことは、歌舞伎だけのものではない。 ・陶芸家の濱田庄司は、随筆の中で「形は轆轤に任せ委ね、絵付けは筆に委ね、焼くは窯に委ねるという気持ちが、ほんの少しながら仕事の上にちらつくことがある」 ・それは老いが教えてくれるのではなく、われわれが何を見出すかが問われているということである。 ・老いの成熟とは、成功も失敗も含めて、それが凝縮されたものとものとものとして今の自分があると認識することである。その意味で、人生を肯定できるという事は老いの成熟につながっている。 ・確かにデーターでは、塩分の摂り過ぎは高血圧や動脈硬化を促進し、塩分控えめの人より早死にする。しかし彼らは、そのような生活スタイルで年をとったつわものである。彼らに塩分制限やタバコの害を解くのは、釈迦に説法というものである。 ・老いをいかに生きるかを考えることは、それまでの人生を振り返り、自分を見つめることにつながる。 ・今と違って、芭蕉の時代の旅は死を賭したものである。彼にとって詩歌風雅の道とは、心静かに臨終するための生死一如の孤独な旅である。・・・・・ちなみに奥の細道の旅は2,400キロ、150日に及ぶ。死を意識しながら50年の生を全うした人生は、すでに精神的には老いに達しているといえよう。 ・「・・・・悔恨と絶望的な自己嫌悪のない老年の成熟というものがあり得るのだろうか」『老いと死の深層』霜山徳爾 ・彼にとって、食事を制限され、うわ言を言いながら10数年生きるのと、これまで通りの生き方を貫いて5年余りで死ぬかもしれないのと、どちらが良いのだろうか。 ・「骨折するかもしれないということで何もできないなら、骨折するまで自由に歩いていよう」 ・大切なことは、ボケないためにはどうすればよいかという囚われから解放されることである。・・・・それぞれが自分にあったことする。・・・・楽しみを求める心と好奇心があれば、その壁を越えることができる。 ・死をひかえて限られた時間の中では、今を生きることが大切である。年をとってからの時間はかけがえのない時間である、それゆえ、高齢になってからは自分のために生きることを柱にする。ボケないためといった将来の不安のためでも、人のためでもなく、自己本位に自由に生きることである。 ・ボケないためには、何かをやらせておくほうがいいといったたぐいの指導や、それを信じこんだ家族が高齢者を叱咤激励する光景は実に多い。こうした思い上がった考えが、どうしてまかり通るのだろう。 ・そのような将来の悪い事態を想定して、それに対する準備を思い悩むのをやめて、今を生きることに専念したほうがいいということである。痴呆になったら、 骨折したら、 といったことえの準備をや心構えを捨てる。 その時になったら考えればいい、なるようにしかならない、という開き直りの気持ちに切り替えることである。 ・堀秀樹彦氏はバードランド・ラッセルを例に取り、「強烈な社会的関心、これがあれば、その関心の度合いの強さに応じて、人は老いを超えるだろう。その場合、いうまでもなく、老人たちは、良い意味で、社会人たることをやめない」と述べる。 ・年をとると使い古したものを捨てない人が多い。・・・・一概に否定できない面もあるが、新しい世界を受け入れられない精神性をあらわしてもいる。むろん、古い衣類を丁寧にかがって使っている姿からは、新しいものを築き着飾るのとは違う、美しさを教えられる。 ・積極的な取り組みと言えば、大勢を一か所に集めて画一的な催しをすることになってしまう。施設はもっと小規模でなければならない。 ・老いて学ぶという考え方は老若の間に深く浸透して、信仰とも言えるほど広まっている。大切なことは学ぶことも含めて楽しむことである。それは遊びにも通じる。・・・・自分のために存分に時間を使うという意味では、ぼーっとして贅沢に時間を過ごすのも、年をとったものの特権である。 ・老いは実績である。その人にかなった生き方だったからこそ、老いてそこにいるのである。もっと自由に生きるべきであろう。「正しい生活」とか「健やかな老い」「老いたらかくあるべし」といった掛け声は多いが、これらの健康法や訓練や予防法は、高齢者やこれから老いを迎える人々の生活を、その一点に収斂しているといっても過言ではない。
by nandemokoukisin
| 2019-03-20 10:01
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