コミュニティを問い直す広井良典<著> |
by nandemokoukisin 検索
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2018年 04月 23日
大分前に一読はしたのですが、よく理解できているとは言い難いです。
簡単に自分なりにまとめると、昔は、農村で3世代ぐらいが、まとまって、生活している世界が全てだった。 それが、戦後の急成長で、次男三男は、都会にでるようになった。それは、働き口の問題もあったかもしれないが、しがらみの多い世界から自由な世界への夢ある脱出でもあったのだ。それぞれ、小さな失敗や挫折はあったかもしれないが、ローンで購入した生活の拠点となる家は、親戚づきあい、地域の付き合いから解放された、全く新しい自由な空間だった。 会社に行けば、朝から、夜遅くまである残業で会社漬けだった。が、会社が家族のようなもので、そこには、一体感もあり、すべてが会社中心であったけど、心地よい世界であったことも間違いはなかったのです。 しかし、高度成長期も終わり、人口のボーナスの使い果たした後は、会社の業績も思わしくなくなり、リストラ、そして定年を迎えると、今度は、会社から突き放され、突如、所属するコミュニティーがなくなってしまった・・・・・この本は、その問題点をこの本は解決案、考えを提案しようとしていると思いました。 <抜書> ・コミュニティとは? コミュニティ=人間が、それに対して何らかの帰属意識を持ち、かつその構成メンバーの間に一定の連帯ないし相互扶助の意識が働いてるような集団 ・社会における根本的な課題は、「個人と個人がつながる」ような、「都市型コミュニティ」ないし関係性というものをいかに作っていけるか、という点に集約される。 ・戦後から高度成長期をへて最近までの時代とは、一貫して「地域」との関わり合いが薄い人々が増え続けた時代であり、それが現在は、逆に「地域」との関わりが強い人々が一貫した増加期に入る、その入り口の時期であるととらえることができる。 ・現在の日本の都市、とりわけ東京などの大都市圏においては、次のようなことがごく当たり前なことになっている。 (1)見知らぬ者同士が、ちょっとしたことで声をかけあったり、あいさつをしたり会話を交わしたりすることがほとんど見られないこと (2)見知らぬ者同士が道を譲り合うというといったことが稀であり、また、駅などでぶつかったりしても互いに何も言わないことが普通であること (3)「ありがとう」という言葉を他人同士で使うことが少なく・・・・・ ・「ウチーソト」を明確に区分し、集団の内部では過剰な気遣いが求められる半面、集団を一歩離れるとなんのつながりや”救い手”もないような関係性のあり方が、かえって人々の孤立や拘束感・不安を強め、またさまざまな”生きづらさ”の源となっている。 ・ヨーロッパにおける「都市」の「城壁」 無秩序な市街地の拡張を押しとどめ、都市地域をコンパクトにするということが早くから当然のこととして政策に取り入れられた。ヨーロッパ各国のこうした経験は、(中略)農村や自然地域を都市化から守るという強い力になった。 ・要するに、都市の本質は、 ①それがひとつにまとまった「団体」としての性格を持つこと、そして、 ②「市民」と言う”身体的資格”の概念が存在すること、 これがウェーバーの言う「都市ゲマインデ」、の実質をなすという把握である。 ・やや妙な表現かもしれないが、いわば住んでいる市や街あるいは地域を一種の「カイシャ」と見立て、そこの帰属意識や”愛着”をこれまでよりも強く持つと同時に、それがよりよい姿になっていくように積極的に参加していく、というイメージを考えることもできるだろう。 ・黒川紀章は以下のような興味深い議論を展開する。 喪失したコミニュケーションを取り戻すためには、学校や家庭そして共有空間が重要で、従来の都市の公共広場にはその力は無い。・・・・巨大な老人養護施設ではなく、様々な世代が合流しコミニュケーションすることが可能なグループホームを。・・・小さな、多くの学校や塾を。・・・多くの質の高い、町の医院を。住んでる人もそうでない人も訪れることのできる小さな図書館や劇場やサロンを。 ・”「福祉」を場所・土地に返すこと”、つまり福祉というものを、その土地の特性や、人と人との関係性の質、コミュニティーのあり方、ハード面を含む都市空間のあり方と一体のものとしてとらえ直していくことが重要となってくる。 ・結論を端的に言えば、これからの時代の基本的な方向として、 (1)各レベルにおける「公ー共ー私」の分立とバランス (2)ローカル・レベルからの出発、という二点が重要になると考えられるだろう。 ・時間的な解決から空間的な解決再び「福祉地理学」について それらの「足りないものは、なぜもう少しバランスよく配分されないのか? 第一は.これまでの日本においては、いわば日本全体を「単位=ユニット」として考えてきたということである。逆に言えばそれぞれの「地域」をユニットとして考えるという発想が薄かった。 第二は、「時間軸」に沿って問題が改善・進歩していくという発想が強かったことである。これはまさに「経済成長の時代には時間軸が優位に立つ」と述べたことと重なっている。つまり時間的な解決という従来の発想ー私がこれまで「経済成長による解決」と呼んできたものと重なるーでは立ち行かない問題がむしろ多くなっているのであり、それは経済の成熟化・定常化と言う時代の構造変化と対応している。(経済が成長すれば、いつか解決する) ・もともと共同体的な所有と不可分の関係にあった「土地」というものは、市場化という方向に最も何もなじみにくい面を持っている。 ・日本の場合、先ほども若干論じたように、農地改革党の帰結として、また強い「開発」基調の中での急激な都市化を背景として、「公共性」を欠落する形でかえって土地所有の私的性格が強まっていった。 ・現在の先進諸国はいわば生産性が上がりすぎた社会となっており、ある種の構造的な「生産過剰」状態にあり、その結果失業が慢性化状況にある。したがってむしろ賃労働の時間を減らし、その分をコミュニティや自然等に関する活動の時間に充てることが、失業削減にもつながると同時に先ほどの「市場経済を超える領域」の発展につながることになる。 ・市場経済における賃労働から、市場を超えた領域でのコミュニティや自然にかかわる様々な活動や余暇の「時間の再配分」が求められているのである。 ・こんなの政策として重要となると考えられるものを、まず列挙すると以下のようになる。 (1)「人生前半の社会保障」の強化 (2)住宅の保障機能の強化 (3)福祉(社会保障)政策と都市政策の統合ー「持続可能な福祉」へ (4)課税・財産の財源のあり方 ・現在のような時期を、地域コミュニティ再構築のひとつのチャンスととらえ、公有地を福祉政策な・コミュニティ政策・都市政策の有効なツールとして積極的に活用していくことが重要なのではないか。 ・高齢者が自ら台所での調理等の家事を行うなど、できるだけ「ふつうの生活」を送ることを通じて心身の状態の悪化を防ぐという面とともに、高齢者相互のー一対一対モデル的な視点からいえば「ケアの受け手」どうしのーコミュニケーションそのものが個人の心身の状態や生活の質の向上にとって本質的な意味を持つ、という点である。 ・現代科学は「古人の知恵」に還る 現代の科学が明らかに指摘しつつあることが、少なくともその結論だけを見る限り、むしろきわめて常識的で、古くからの知恵を再確認するようなものが多い。そこでの基本メッセージは要するに”病は気から”ということであり、近代科学の「こころと身体の分離」という世界観とは逆の方向を示している。 ・今後、脳科学などが発展して人間という存在の複雑性が明らかになればなるほど、ベットに寝かせきりで薬漬けの”治療”ではなく、日常的な他者との関わり合いや「普通の生活」ができるようなサポート体制こそが、最大の治癒や予防であることが示されるだろう。その時、科学や医学はもっと人間や生活に寄り添った本来のものとなりうる。私自身は、こうした今後の科学のあり方を「ケアとしての科学」と呼んでみたい。 ・「都市型コミュニティ」を作っていく上でのポイント (1)ごく日常的なレベルでの、挨拶を含む「見知らぬもの」同士のコミュニケーションや行動様式 (2)各地域でのNPO、協同組合、社会的企業その他の「新しいコミュニティ」づくりに向けた多様な活動 (3)普遍的な価値原理の構築 ・一見、人と人とつなぐものは「感情」や「共感」と言ったものであって、「普遍的な原理やルール」といった硬質で、抽象的なものが人と人とをつなぐ通路になるといった言い方は、奇異に聞こえるかもしれない。 ・不特定多数の個人からなる「都市」的な社会において、人と人とを結びつけるのは(或いはその契機ないし入り口となるのは)、むしろ「普遍的な原理やルール」なのでありある。その中には、ある意味で形式的な挨拶やお礼の言葉といったことも含まれるし、それは人間が(所属する集団の違いを超えて)人として遵守すべき規範原理であったり、言語化された共通の理念であったりする。 ・現代では、様々な地球環境問題や地球レベルでの資源・エネルギーの有限性の顕在化、また経済のグローバル化ということと表裏のものとして、(有限な)「地球」という観念が、ある意味で人々の日常的な意識にまで浸透するようになっている。これは「精神革命」や「枢軸の時代」とは根本的に異なる状況である。 ・”宇宙における人間”という発想あるいは問題設定に対して、無限の「宇宙」はむしろ有限性を持った「地球」に置き換わりー”果てのない全体”ではなく”果はてのある全体”ー、他方「人間」のほうは、普遍性や独立性をもった存在であると同時に、”「地球というコミュニティー」の一員としての存在”という意識が、おそらく世界史上初めての形で生成しつつある。 ・紀元前5世紀前後の精神革命ないし「枢軸の時代」の思想は、人間の普遍性に重点を置いており、各地域のローカルな多様性といったことはさほど重視しなかったが、今後は地球上の各地域の風土的・環境的多様性こそが立脚点になるのではないか。 ・資本主義の”反転”を示唆すると同時に、その先に展望されるのは、第5章でも述べた、市場と政府とコミュニティー、あるいは「資本主義と社会主義とエコロジー」がクロスオーバーするような社会像である。 ・こうした方向は、産業化が成熟化した後の時代をすでに迎えている”先週諸国”が共通して直面している状況であり、コミュニティというテーマをめぐる”ポスト資本主義的”な次元とも呼びうるものだ。
by nandemokoukisin
| 2018-04-23 23:42
| 読書ヒストリー
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