四国遍路を歩いてみれば 後期高齢者の四国遍路 狹間 秀夫著 |
最後の総括は、流石だなって、思いました。
巡礼は、旅の中の旅だと!!
昨年のヨットの旅と似ていますね、雨風の心配をして、宿(港)の心配で一喜一憂しているなんて!
前々から、行こうと思ってましがた、益々、その気が強くなってきました。
これまでに求めた書籍や、バスによる体験等、活かす時は近づいたのかもしれません。
<抜き書き>
・断っておかなければいけないが、遍路を続けていた当時、歩行距離や休憩時間、正味歩行時間等といったような、客観的な捉え方は全くしていなかった。(が、書き留めておけば)今振り返ってみて書けるわけで、その時は次の目的地のことだけを考え、札所間距離など全く考えの外にあった。何キロ先に宿泊施設があるか。予約は取れるか、ただそれだけである。事実、それ以上のことを考えても意味がないわけだ。
・社会事業としての池や井戸という具体的な成果による恩恵、日本古来の自然と一体となった山岳信仰や修験道、苦行といった具体的な行為と、高野聖の行動力。加持祈祷による具体的なご利益。これらのの具体的で目に見える形によって、大衆の弘法大師信仰は生まれ定着していったと、ということになるだろう。私がこの巡礼を通して経験する、日々の歩行と言う具体的な行為を通して何かを掴み取っていくのと、一脈通じているように思える。つまりアタマではなくカラダで理解すると言うことだ。
・遍路マークは救いの神だ。時には「助かった、有り難う」と、このマークに向かって手を合わす。巡礼を通して何回、いや何十回「有り難う」と呟いたことだろう。それまで、抱いていた不安は消え、心が温かくなり、余裕ができる。すると、人のみならずすべての物事に優しくなれる。この場合、歩行による疲労と不安な気持ちがバネになって、物事にたいする感謝の気持ちを生み、増幅させていく。幸せになるための秘訣がこの中に隠れているように思える。幸せになる方法はある。それは全ての物に感謝することだ。
・この稿を書いている今感じることは、幸せを得るには力が必要だということだ。その力とは単に物理的な力ではなく、人任せではなく、自助努力する力である。幸せになる方法を自分で創り出す力である。巡礼の旅、特に歩き遍路は連日の辛く不安の歩きの中からそれを、つまり幸せを掴むための方法を、我が物とする機会を提供されているのだと思える。歩き遍路という努力=力である。その努力を通して幸せを我が物とするわけだ。
・実はこの時、この有名な栗林公園が直ぐそこにあるということに、全く気づいていなかった。この巡礼における私を象徴しているようだ。この時の私は八十八ヶ寺しか頭になく、それ以外のことに目を向ける余裕が全くない旅だった。これは私の性格から来ているものだと思っているが、高齢者であることに起因している面も多分にあるようだ。・・・体力のある三十代であれば、・・・・何か興味のあるものがあれば、時間を気にせず寄り道をする。そんな余裕から遍路道以外のものにも目を向けることが出来る、という意味である。このことは、後期高齢者の歩き遍路にとって、大きな意味がある。それは巡礼<心の問題>だけに集中出来るという利点を生むことになる。
・不安感、孤独感を抱いた時、人は恐れ、謙虚になり、自分を、日常を、見つめ直す。それが歩き遍路の値打ちだと思っている。
・例えば、一人で山の中に入って行くときなど恐怖心がありますが、結果的には必要のない恐怖心だったことが殆どで、悩みとか心配事とか考えてもどうにもならないことをから少しずつ解放されて、結果的に《物事はなるようになる。なるようにしかならない。》のだから、不安とか心配とかそういうものを心に作らないようにしよう。作らないためには《身体を使って動く》を多くしてアタマはなるべく単純になろう。と、心が軽くなっていくことを感じます。
・巡礼の旅のテーマは単なる観光ではなく、<心>であることは間違いないだろう。自分の<心>と向き合う、同行二人の旅である。その意味において、徒歩による巡礼の旅は、旅の本質を行く《旅の中の旅》と言えるだろう。
・百年前、私はこの世に存在しなかった。今は存在しているが、あと何年かすればこの世に存在しなくなる。存在している今の私は日々変化しているだけで、実体がなく、時間とともに消えていくというわけだ。爪、毛、皮膚など全ての細胞は刻々と変化し、例えば今見えている皮膚は、何日かすれば垢となって消滅する。
・連日の歩きにより疲労が蓄積してくると、歩き自体が苦行になる。そして歩きには多くの不安がのしかかる。・・・・目的地に辿り着きたいという執着心はあっても、やきもきしても仕方がない、なるようにしかならないだろうという開き直りの気持ちと共に<あるがままの現状を受け入れよう>という気持ちが定着していく。つまり何が 何でもという執着心が薄れていく。長距離歩行による疲労と色々な不安感がそれを生んでいるといえる。このいわば苦行が、あれもこれもと思っていた私の欲を削ぎ落とし、とにかく到着さえ出来ればよしと私の気持ちを謙虚にし、迷ってがなくなっていくのだと思える、理屈ではなく身体で感じ取る。これが歩き遍路の最大の良さであろう。そんな時に触れ合う地元の人たちとの交流、なかんずく、お接待は心に染み入るものだ。
・豊かな人生とは「ワクワク、ドキドキすることが多い人生」と定義するようになった。何事かに興味を抱き、それに取り組み、そこから成果を得る喜び
・次いで幸せとは<ゆったりした気持ちでニコニコしておられる状態>と私は定義付ける
・この巡礼を通して多くのことを教えられた。それは僧侶によってだけでなく、歩くという辛さと不安感により、身体を通して感得したものである。ここに歩き遍路の良さと意味がある。このことは生きていく上において多くのことを示唆している。