となりのイスラム 内藤正典著 |
なんとなく、恐怖感を感じさせるイスラムの国、教徒ですが、この方の話では、彼らの信じていることが分かっていれば、そんな怖いものではない。
彼らはイスラムのルールに従っている生きている敬虔な人たちだ、なんとか暮らし合っていけるのでないかと思いました。
・イスラム教徒の姿をまとめておきましょう。
①人間が一番えらいと思わない人、②人と人との間に線引をしないひと、③弱い立場の人を助けずにはいられない人、④神の定めたルールの下では存分に生活をエンジョイする人、⑤死後の来生を信じて、楽園に入れてもらえるように善行を積もうとする人
<抜書>
・イスラムという宗教の体系が、私たちがなじんでいる近代以降の西欧世界で生まれた価値の体系とは、ある種、根底から違っていたということです。簡単に言えば欧米の世界からは否定すべき暴力に見えても、イスラムとしては暴力であっても否定すべきとは考えていない場合があります。
・過去、少なくとも一世紀にわたって、欧米諸国とイスラム教徒自身が暮らす国々が、イスラム的に正しく生きようとする人たちの居場所を奪い続けてきたということです。
・イスラムと「戦う」という選択肢より「共存を図る」ほうが、人類史のレベルにおいて、はるかに大きな恩恵が生まれるに違いありません。・・・なんとか分かり合えるというのは、幻想に過ぎません。
・イスラム世界と西欧世界とが、水と油であることを前提として、しかし、そのうえで、暴力によって人の命をこれ以上奪うことをお互いにやめる。そのために、どのような知恵が必要なのかを考えなけばなりません。
・人を騙すようなことはを決してしない、他人を見下さない、自分の家族も含めて、何が正しいことなのか、いつもそれを考えて行動する。わたしは彼のそういうところに、イスラム教徒の本質をみます。
・イスラム教徒には、「神から離れて人間が自由になる」という観念も感覚もまったくないからです。ライシテというのは、「神から離れる」というよりも「教会」から離れることで人間が自由になれるという考え方だともうのですが、結果的には、キリスト教の信仰を個人の胸の内に閉じ込めることに成功しました。
・イスラムには、キリスト教、それも正教会やカトリックに典型的な、教会の組織というものがない。集団礼拝のために人は集まりますが、しかし、モスクに信者が帰属するという発想はありません。
・フランス社会には、いまでもスカーフがイスラムという宗教のシンボルだと信じている人がたくさんいまうすが、あれはシンボルではありません。隠しなさいというのは、イスラムに由来する規範です。しかし、実際にかぶっている人に聞くとすぐわかりますが、髪の毛をかあらわにするのは恥ずかしいから隠すのです。
・突き詰めて言えば、それは、分け隔てをしない他者の接し方です。人と人との間に「線を引かない」態度と言ってよいでしょう。イスラムでは、本当に、神の下にある人間は平等。
・私は確信して言います。ヨーロッパの市民よこれ以上お衝突を起こすことなかれ。相手は十五億か十六億か、数えることなど不可能だ。これ以上イスラムの間に衝突を引き起こすと、新しいかたちの世界戦争になりかねない、と。一刻も早く、そこに気づいてほしいと説きつづけるだけです。
・日本人に難しいルールはイスラムの人たちにとっても難しい。日本人に理解できることは、基本的に彼らでも理解できる。
・ハラール・ビジネスには、違和感を持っています。ハラールとは本来、イスラム法によって、ゆるされているものや行為を総称する言葉ですが、いま日本でハラールといえば、「イスラム教徒が食べられるもの」という意味で使われることが多いようです。
・それを食べるか食べないかはイスラム教徒に委ねればいい、このような主旨のことを京都の商工会議所に呼ばれたセミナーの中でお話したら、聴衆のみなさんは拍子抜けしたようでした。ハラール認証をとるために、高額の費用を払って講習に行ったりするようなことは、必要のないことです、
・そういうことを商売にするハラール・ビジネスというのは、イスラム教徒ではなくても、実に傲慢なことだと思います。イスラムをよく知らない日本人を脅してカネをとってるようなものですから賛成できません。
・面白いのは、トルコで見ていると、ケバブ屋(ケバプチュ)と名乗っているところでは、酒を絶対出しません。ところが炉端焼(オジャクバシュ)と書いてある店では、出てくる料理はケバブチュと同じなのに酒を出します。
・私たちに向かって、どうぞお飲みくださいという人も多い。普通はイスラム教徒も交えての食事会であっても、お酒をそこで飲むか、飲まないかということに、必要以上に配慮することはないと思います。
・近代以降の西欧社会が、神から離れることで人間が自由を得ていくと考えたこととは、まったく、違う考え方です。イスラムは神とともにあることによって自由をえるのです。この点でも、近代以降の西洋の物の考え方とイスラムとは、接点を持っていません。
・神の領分をおかしてはならない。つまり、人間が生み出した技術によってすべてが出来るとは思っていないということです。ここから先は神の領分だから自分たち人間が手を触れるべきではない、という了解が成り立つ。それがイスラムの特徴です。
・そういうことは起こりうる。起きてしまったことを、なぜおきたのだろうと追求してもどうにもならない。ならば、一種の『定め」のようなものとして受け入れる。という感覚です。
・弱者の救済というのは、イスラム的にたいへん重要な義務です。
・意外なことと受け取られますが、大学に進む際に、女性には文系が多くて男性に理工系が多いということはありません。性別で進路を決める発想はイスラム社会には希薄です。
・イスラム圏のほうが、政治的なリーダーにおいても女性の活躍が目立ちます。バングラデシュ、パキスタン、トルコでは女性の首相が出ていますし、イランでも女性の副大統領が何人も出ています。恥じたほうがいいのは、実は、日本のほうなのです。
・奴隷にしても、斬首刑にしても、テロにしてもそんなことはありえないと考えるのは、同じ時代を生きるイスラム教徒にとっても当然ですが、それは西欧の考え方に啓蒙されたからではありません。
・イスラム社会に対してジェンダーをさんざん避難しておきながら、スカーフ問題では女性だけに屈辱を強いるのでは、フランスのジェンダー論はダブルスタンダートを使っていることになりますが、誰もそのことに気が付きません。スカーフやヴェールが隠しているのは髪の毛やうなじ、喉元のあたりです。これは、イスラム教徒の女性にとって性的な羞恥心の対象になります。感覚としては、日本でいえば、女性が足をどこまで出すのか、ということに近い。それは自身で決めることであって、国家権力がああしろ、こうしろと命じるようなことであろうか、と思うのですが、フランスはぜったいにそれを理解しないのです。
・フランスに限らず、西欧諸国が、イスラム世界を啓蒙するのだと言い張り、一方のイスラム世界は、その啓蒙を拒む。結果、テロリストが増えるだけ・・・これは、思考の体系が異なるのに、一方をごりごりと相手に押しつければ、相手が変わるだろうというありえない思い込みによるものです。こういう不毛な連鎖を断ち切らなくてはいけません。
・国家というのは領域を持ちます。領域は国境線で仕切られます。同じ民族どころか、親戚同士なのに、国境線が引かれてしまったことにより行き来もできなくなる。こういう悲劇がパレスチナでもシリアでも、トルコでも、イラクでも続いているのです。
・イスラム組織から過激で暴力的な組織を生み出さないようにするには、こういう若者の叫びに向き合わなければなりません。彼らに、一日もはやく、安全と安心を保障しなければなりません。欧米諸国では、いあまだに、過激な思想に洗脳されたからイスラムを掲げるテロリストが生まれると思い込んでいますが、これは、間違いです。
・イスラム国は、イスラム教徒の移民社会をも分断しようとしていました。
・イスラム教徒の姿をまとめておきましょう。
①人間が一番えらいと思わない人、②人と人との間に線引をしないひと、③弱い立場の人を助けずにはいられない人、④神の定めたルールの下では存分に生活をエンジョイする人、⑤死後の来生を信じて、楽園に入れてもらえるように善行を積もうとする人