樹木希林が通い続ける何必館 朝日新聞 |
祇園・四条通沿いのビルの5階に、その坪庭はある。
エレベーターの扉が開くと、モミジの葉が風に揺れ、柔らかな陽光が注いでいた・天井には楕円の穴。その奥には茶室。外の騒がしさとは対照的な静寂に包まれた。
「こんな場所に本物の美。常識にとらわれない遊び心。私の好きな京都です」
案内をしてくれた女優の樹木希林(73)は、ほほ笑んだ。
坪庭と茶室は「何必館・京都現代美術館」の最上階にある。この美術館の館長の梶川芳友(75)が近代日本画家の村上華岳の作品を鑑賞するために、自ら設計し1981年に建てた。
人は定説にしぱられる。定説を「何ぞ 必ずしも」と疑う自由な精神を持ち続けたい。こう願った梶川は、美術館を「何必館」と名づけた。最上層は、梶川が美術の世界に入る契機になった村上の晩年の作品「太子樹禅那」のためだけにつくった空間だ。
そんな樹木の人生に大きな影響を与えたのは病だ。60代で左目を失明し、今、全身に転移したがんとも向き合う日々だ。
死を意識したとき、「所有しない生き方」を選ぶようになった。靴は3足、洋服も買わない。名刺1枚受け取らない。「そぎ落とされ、感性を磨くことに集中できるので、表現者としてもプラスに働いている気もする」
頂き物のショールも自らズボンに縫い直す。受賞トロフィーも、自分の死後に家族が使えるようにと、電気スタンドに変えた。
そのことを梶川に話すと、「北大路參聡程廃品利用の名手・失敗作は捨てるのが常識だったのに、二度焼きして生かした」と教えてくれ、2人で笑った。
樹木は19歳から京都に通い続けてきたが、年を重ねるごとに一層ひかれるようになった。
だが同時にこの間ずっと、死への恐れ、所有や定説から自由でいることの難しさも感じてきた。
「だからここに通い続ける。ほっとするの」
樹木希林1943年、東京生まれ。1961年に文学座に入所。主な出演作は「あん」 「海よりもまだ深く」。