数学する身体 森田真生著 |
とても、数学の話とは思えない内容でした。特に、岡潔さんの話などは!
もっと、もっと、岡潔さんのことを知りたくなりました。
・人間が人工物を設計するときには、あらかじめどこまでがリソースでどこからがノイズかをはっきり決めるものである。設計者のいない、ボトムアップの進化の過程では、使えるものは、見境なく何でも使われる。結果として、リソースは身体や環境に散らばり、ノイズとの区別が曖昧になる。どこまでが問題解決をしている主体で、どこからがその環境なのかということが、判然としないまま雑じり合う。簡単な電子チップですら、その問題解決のリソースは、いともたやすく環境に漏れ出してしまうのである。だとすれば、四十億年の進化プロセスを生き残ってきた私たちの「問題解決のためのリソース」は、もっとはるかに身体や環境のあちこちに沁みだしているはずである。
・ともかく、ここで強調したい事は、様々な認知的タスクの遂行に置いて、脳そのものが果たしている役割が、思いのほか限定的である可能性があると言うことである。脳が決定的に重要であることはもちろんだとしても、仕事の大部分を身体や環境がになっている場合も少なくないのだ。
・普通、船や潜水艦にとって海水はあくまでも克服すべき障害物である。ところが、マグロは周囲の水を、泳ぐと言う行為を実現するためのリソースとして積極的に活かしている、と言うわけだ。
・岡潔によれば、数学の中心にあるのは「情緒」だと言う。計算や論理は数学の本体ではなくて、肝心な事は、五感で触れることのできない数学的対象に、関心を集め続けてやめないことだと言う。 自他の別も、時空の枠すらも超えて、大きな心で数学に没頭しているうちに、「内外二重の窓がともに開け放たれることになって、『清冷の外気』が室内に入る」のだと、彼は独特の表現で数学の喜びを描写する。この人にとっての数学は、頭で理屈をこねる事でも、小手先の計算を振り回すことでもなく、生命を集中して数学的思考の流れになりきることに、この人は無常の喜びを感じていることが伝わってきた。私は岡潔のことをもっと知りたいと思った。彼が見つめる先に、自分が本当にしたい何かがあるのではないかとも思った。簡単に言えば、「この人のことを信用できる」と直感したのだ。
・道具と言うのは、むやみに作れるものではないのである。それが効果的に機能するためには、人間の体に寄り添う必要がある。
・芭蕉は感情ではなく、情緒の世界を歩いていた。表面は寂しいようでもあるが、底は暖かく自然に抱かれている。そのことが分かった途端、薄氷のように頼りなく思えた芭蕉一門の足もとは、実は、「金剛不壊」の「底つ岩根」だったのだと悟った。
・生き物は、ただ生きているだけで、次々と困難に出会う。全く想定外の、想像もしない新たな課題にぶつかることもある。そんな時にも生物は、自分の手持ちの道具と身体で、なんとかやりくりをしてきた。
・そもそも紙と鉛筆を使った「計算」も、紙や鉛筆を持つ物理的な性質に依存しているし、紙を使おうがコンピュータを使おうが、計算というのは自然現象の振る舞いの安定性に支えられている。自然現象をある目的に沿って、部分的に切り出すことで計算は成り立っているのだ。そういう意味ではで自然界には、常に膨大な計算の可能性が潜在している。
・「境地が進んだ結果、ものが非常に見やすくなった」と言う時、岡の念頭には芭蕉のことがある。芭蕉の句は「生きた自然の一片がそのまま捉えられている」ような気がする、と彼は言う。
・芭蕉の意識の流れが常人よりもはるかに速いのは、彼の境地が「自他の別」「宿の框」という2つの峠を越えているからだと、岡は考えた。
・過去を悔いたり未来を憂いたり、人と比べて自分を見たり、時間や空間、あるいは自他の区別に拘っていては、それが意識の流れをせき止める障害となる。逆に、そうした区別にとらわれなければ、自然の意識が「無障害」のまま流れ込んでくると言うのである。
・ 20世紀の数学は、数学を救おう、より良くしようと言う思いの帰結とは言え、行き過ぎた形式化と抽象化のために、実感と直感の世界から乖離していく傾向があった。そうした中で岡は、「情緒」を中心とする数学を、心の中で理想として描いた。数学を身体から切り離し、客観化された対象を分析的に「理解」しようとするのでなく、数学と心を通わせ合って、それと一つになって「わかろう」とした。その彼の数学を支えたのが、芭蕉一門の生き方と思想だったのだ。
・岡によれば、数学者の仕事は百姓のそれに近いと言う。その本文は「ないもの」から「あるもの」を作ること、まさに「零から創造すること」にある。しかしなぜ、「ないもの」から「あるもの」ができるのか。それは種子の中に、あるいは種子を包み込む土壌の中に、「ないもの」から「あるもの」を生み出す力が備わっているからだ。
・「情」や「情緒」という言葉を中心に据えて数学や学問を語り直すことで、岡潔は脳や肉体と言う窮屈な場所から、「心」を解放していこうとした。情の融通を妨げる一切のものを取り払い、自他を分かつ「内外二重の窓」を開け放って、大きな心に「清冷の外気」を呼び込もうとした。
・外で雨が降っている。前歯?は自分を忘れて、その雨水の音に聞き入っている。この時自分というものが無いから、雨は少しも意識に残らない。ところがある時、ふと我に返る。その刹那、さっきまで自分は雨だったと気がつく気づく。これが本当の分かると言う経験である
・かぼちゃの種子の生成力が、種子や土、太陽や水の所産であって、人間の手によっては作れないものであるのと同じように、「生きる喜び」も本当は、周囲や自然や環境から与えられるものであって、自力でつくり出せるものではない。ところが今は、なんでも「個人」ということが強調されて、その「個」が「全の上の個」であると言うことを忘れている。大自然には情があり、一つ一つの情緒がその情の一品である、ということが忘れられている。それで、日々の生きがいまでわからなくなった。自他を分断し、周囲から切り離された「私」の中から、生きる喜びをが湧き出すはずもない。
・岡潔は学生たちに、自我を進め、情を清め、深めなさいと、言葉を尽くして語りかけた。そして、生きる喜びを素直に感じられる世界をたたみ建設するために、日々、「春雨の曲」原稿と向い続けた。
・生きる事は実際、それだけ果てしない神秘である。何のためにあるのか、どこに向かっているのかわからない宇宙の片隅で、私たちは束の間の生を謳歌し、はかなく滅びる。虚無と呼ぶにはあまりにも豊饒の世界。無意味と割り切るには、あまりにも強烈な生の欲動。その圧倒的に不思議な世界が、残酷までに淡々と、私たちを包み込んで、動き続ける。
・動かぬ芯としての心、変わらぬ中心としての数学などというものは幻想である。心が変容し続けるものであり、数学もまた動き続けるものなのだからだ。肝心なのは、動かぬ中心ではなくて、絶えず動き続ける生成の過程そのものである。だからこそ、心を知るためにはまず心に「なる」こと、数学を知るためにはまず数学「する」こと。そこから始めるしかないのである。
球に【π】の係数として、【1 2 3 4】(『球の数』)と計算されて。
『自然比矩形』に、計算過程として、【1 2 3 4】が顕われる。
カタチの 〇 ▫ ながしかく
言葉(言語)の 点・線・面
数の言葉の 1 2 3 4
の【ゲシュタルト感覚】で[分化] [融合] の[量化] が数の言葉の本性のようだ。
文化の日逆さ富士観てエジプトへ