「テロ」とは、何か 東京外国語大学教授 黒木英充 朝日新聞 |
ブッシュ政権は、このテロ事件を契機にアフガニスタン侵攻を行い、さらに2002年に国際テロ組織とならず者国家と断じた悪の枢軸(イラク、イラン、北朝鮮)との戦いを国家戦略とし、「アメリカの防衛のためには、予防的な措置と時には先制攻撃が必要」として推進する方針を決めた。これをもとに、アメリカ合衆国はイラクに対して大量破壊兵器を隠し持っているという疑惑を理由に、イラク戦争に踏み切った。
結論の、テロの催眠術から目覚めなければならないとは、どういうことだろうか?
一方的断罪から目覚めて
新聞を開いて「テロ」の文字を目にしない日はない。しかし「テロとは何か」の問いに答えられる人はどれだけいるだろう。
2001年、9・11事件を節目として「テロリズム」は世界の人々を一定の方向に誘導する巨大な力をもつ言葉となった。問題なのは、角度が異なるとまったく違った姿に見える政治的暴力を一方的な立場から断罪することが不自然でなくなることである。わかった気にさせられるマジックワードなのだ。
言葉の意味は時代により変化するとはいえ、「テロリズム」の変貌ぶりは突出している。9・11事件の余燼くすぶるなか、カナダの国際政治学者ジョナサン・バーカーが『テロリズム』でまず強調したのも、18世紀末の革命直後のフランス政府による、ギロチンを使った反体制派殺戮(2年間で4万人ともいわれる)がこの語の始まりという事実だ。そもそもテロは国家が行っていたが、いつのまにか非国家組織が行う無差別大量殺人となり、さらにはイスラム過激派が行うものと限定されつつある。 たとえば、10月にドイツで、反イスラム・反移民の立場から女性市長候補者に刃物で切り付けた者は「テロリスト」とは呼ばれないのだ。
原因解明を放棄
多様な「テロ」のすべてに通底するのは、政治的な目的を遂げるべく人を殺傷することである。政治は理性的な言論に依拠すべきだが、「きれいごとばかり言ってもいられない」時、テロの芽が出る。古今東西あまたの事例を引きながら政治的暴力の流れの中にテロを位置づける作業は、すでに法哲学者・長尾龍一が1989年の『政治的殺人 テロリズムの周辺』 (弘文堂・品切れ)で十全に行っていた。またバーカーは、この言葉を使うことで政治的暴力の原因や意味の解明が放棄され、従来の偏見が助長される結果を生む危険性を指摘した。しかし「テロ」「テロリスト」の語が対象を恣意的に設定して罵倒し悪魔化する力はますます強まっている。このままでは21世紀は「対テロ戦争」が絶え間なく繰り返される時代になりそうだ。
フランスの現代イスラム学者ジル・ケペルによる『テロと殉教』は、イラク戦争後の中東において深まるイスラム主義的暴力と対テロ戦争の応酬を、二つの「大きな物語」のもたれ合いとして描き出す。侵略者相手の聖戦に命を捧げれば尊い殉教者になれるというイデオロギーと、戦争でテロリストを根絶すれば中東の民主化が実現できるという米国ネオコンのイデオロギーとの相互依存関係である。
世界内戦の出現
その結果は何か。アフガニスタン、イラク、シリアなどの国家システムの破壊と内戦であり、難民の大量流出である。問題は何一つ解決しないどころかますます深まっているのだ。国際政治学者・土佐弘之は『アナーキカル・ガヴァナンス』にて、テロをめぐる野蛮・文明論から帝国論や積極的介入論に至る現代思想の多数の成果をもとに、非対称的で絶対的な敵対関係と世界資本主義による格差拡大の動きとが絡まり合いつつ世界各地に浸透し、「世界内戦」の状況が出現していることを指摘する。これは第三次世界大戦の緩慢なる始まりかもしれない。
出口はどこにあるのか。政治的暴力には犯罪として対処すること、超法規的措置に走ることなく国際刑事裁判所機能を強化することなどから出発するべきだろうが、その前に「テロ」の催眠術から覚めねばならない。
◇くろき・ひでみつ 61年生まれ。編著『シリア・レバノンを知るための64章」など。