103歳になって分かったこと 篠田桃紅著 |
103歳にして、この考えが出来るなら、長生きしてもいいですが・・・・・
・人が生まれて死ぬことは、いくら人が考えてもわかることではありません。現に、私に何か考えがあって生まれたわけではありませんし、私の好みでこの世に出てきたわけでもありません。自然のはからいによるもので、人の知能の外、他の領域ではないと思うからです。
・しかし、死なないようにしようと思っても、死ぬと決まっています。死んだ後の魂についても、様々な議論がありますが、生きているうちは、確かなことはわかりません。人の領域でないことに、思いをめぐらせても心理に近づくことはできません。それなら私は一切を考えず、毎日を自然体で生きるように心がけるだけです。
・自由という熟語は、自らに由ると書きますが、私は自らに由って生きていると実感しています。自らに由っていますから、孤独で寂しいという思いはありません。むしろ、気楽で平和です。
・人に対して、過度な期待も愛情も憎しみももちません。そもそも、人には介入するものではない、と思っています。・・・自らの足で立っている人は、過度な依存しない。
・今日は、昨日より少し下手になっている・・・・・。老齢期に入ってからというもの、日に日に老いていくことが、そして、どのように衰えているのか、手に取るように分かります。
・歳をとるということは、クリエイトするということです。作品を作り上げるよりずっと大変です。すべてのことが衰えていくのが、歳をとるということなのだことなのに、二重のハンディで、毎日を創造的に生きていかなければなりません。
・達観するようになったということ言うのは、歳をとって得たものの1つだと思います。若いうちはいくら客観視していたつもりでも、自らがその渦中にいますから、物事を客観的に見ることに限度がありました。しかし、歳をとるにつれ、自分の見る目の高さが年々上がっていきます。今までほうだと思って見ていたものが、少し違って見えてきます。同じことが違うのです。・・・過去と今とではずいぶん違って見えます。過去を見る自分の目に変化が生まれました。
・長く生きると、ある程度のことが満たしてきましたので、自分の目は未来よりも過去を見ていることに気がつきます。年寄りは昔の話ばかりするとよく言われるのもそのせいでしょう。他に話題がないからではなく、目の高さが変わるから、自然と昔話が多くなるのだと思います。
・歳をとれば、人にはできることとできないことがあることを思い知ります。そしてやがて悟りを得た境地に至ります。それは、できなくて悲しいと言うよりもあきらめることを知ります。ここまで生きてきて、これだけのことをした。まぁ、いいと思いましょうと、自らに区切りをつけなくてはならないことを次第に悟るのです。
・誰か式、誰か風、ではなく、その人にしかできない生き方を自然体という。
・あまり長生きをしたくないという人がいます。それは偽りだと思います。みんなやはり長生きがしたい。誰だって死にたくは無いはずです。
・しかし、これで一切何も子供のことは心配しなくなるかというと、親ならそれはありえません。心のどこかで、大丈夫だろうか時にかけます。心配する種がなくても、何かしら見つけ出しては心配してしまいます。完全に親の手が離れたからといって、心まで離れたということにはならないからです。子供に対して、もうやってあげられる事は何もありませんと、親は終わらせることができないからです。
・「いつ死んでもいい」と自分自身に言い聞かせているだけで、生きている限り人生は未完だと思います。
・人が、昔から自然の営みなどで占いたくなるほど、自信がなく、何かを頼りにしていきたい生き物です。何の不安もなく生きている人がいないのです。非常に頼りない精神の生き物かもしれません。でも、生きているうちにいろいろな経験を積んで、少しは自信をつけているから、生きていられます。
・自然物には膨大な種類があります。人は動物の一種、ウサギや亀などとおなじ一種。自然の産物として生まれただけ、そう思えば気楽なものです。
・人がおいて、日常が「無」の境地にもいたり、やがて、本当の「無」を迎える。それが死である、そう感じるようになりました。考えるのをやめれば、何も怖くない。ただ「無」になる。
・老いたら老いたで、まだ何が出来るのかを考える。
・人が、説明を頼りに何かを見ていると、永遠に説明を頼りに見るようになってしまいます。例えば、それが絵であればんの鑑賞の幅を自ら狭めていることになります。
・パソコンや携帯電話などの機器を買うとき、人を頼りに買っていれば、使う時も人頼りなります。機器を使いこなす楽しみを自ら放棄していることになります。参考にできることは、おおいに参考にしたほうがいいと思いますが、頼るのではなく、自分の目で見て考える。
・面白がる気持ちがなくなると、この世は非常につまらなくなります。
・夢中になれるものが見つかれば、人は生きていて救われる。頭で納得しよう、割り切ろうとするのは思いあがり。
・与謝野晶子「私たちは愛に生き、 芸術に生き、 学問に生き、労作に生きる限り、人生をけっして空虚なものとも、倦怠なものとも感じません。人生の楽しみがこれらの文化生活の中に無尽蔵にあるのです」
・あそこに行きたいと思ったらいく。それしかないのです。…体が丈夫なうちは、自分がやっておきたいと思うことがどんどんやったほうがいいと思います。人生を楽しむためには、人間的な力量が要ります。
・受け入れられるか、認められるかよりも行動したことに意義がある。
・規則正しい生活が性に合う人もいるでしょう。計画を立てないとならない事情も、ときにはあるでしょう。しかし、あまりがんじがらめになると、何かを見過ごしたり、見失っても、そのことに気がつきません。自分に規律は課せないし、外からも課せられない。
・間にある。これは、人形浄瑠璃、歌舞伎の作者、近松門左衛門の有名な言葉です。真実は、言葉に知れないし、。想像力を頼りにしなければ、語れないもの。近松門左衛門は、そういったかったのでしょう。
真実ハ、想像の中にある。だから、人は、真実を探し続けているのかもしれません。
・無駄はとても大事です。無駄な多くならなければ、だめです。お金にしても、要るものだけを買っているのでは、お金は生きてきません。安いから買っておこうというのとも違います。私の日々の、無駄の中に埋もれているようなものです。毎日、毎日、紙を無駄にして描いています。時間も無駄にしています。しかし、それは無駄だったのではないのかもしれません。何も意識せず無理にしていた時間が、生きているのかもしれません。つまらないものを買ってしまった。無駄遣いをしてしまった。そういうときには、私は後悔しないようにしています。むだはよくなる必然だと思っています。
・1つ得れば、1つ失うことは覚悟しなさい、ということなのでしょうか。何もかもが満足な人生はありえないようです。私もずいぶん裕福な人を見てきましたが、裕福だから幸福だったとは思えませんでした。かといって、極度な貧乏もまた不幸です。どのように生きたら幸福なのか、「黄金の法則」は無いのではないないのでしょうか。自分の心が決める以外に、方法はないと思います。この程度で私はちょうどいい、と自分の心が思えることが一番いいと思います。このくらいが自分の人生にちょうどよかったかもしれないと、満足することのできる人が、幸せになれるのだろうと思います。
・私の場合は、こうなりたい、と目標を掲げて、それに向かって精進する、という生き方ではありませんでした。人を求める私の心が、私の道を作りました。すべては私の心が求めて、今の私がいます。
・私の根は、私が今まで触れたすべてでできている。家にある軸、額、書、紀元前の甲骨文字、古今集などあらゆる古典、また文字でないものでも、あらゆる影響、感動、拒絶すら、なんでも私の根になっている…。あれから80年近くが経ちますが、根は、他者にあるのではなく、その人自身の一切だと思っています。
・このように様々な人種、文化、習慣を持つ人々が集まるニューヨークでは、なんでもあり。お互いに文化を持ち寄っているのでどこ私は思いました。影響を受けることも、それによって変化することも厭わない。いつも新しい何かを作ろうとしていました。
・感覚を磨いている人は、日常生活においても、有利に働きます。まず、間違いが少なくなります。知識や経験に加えて、感覚的にも判断することができるので、身の回りの危険、トラブルなどを察知し、さっと上手に避けることができます。
・高級ブランドを取り換え引き換え着て装うという次元では無い。いつも同じ服、それでも構わなかったのです。自分を見せびらかすという感覚がない。
・美しいものは、多少の好みがありますが、どの国の人も美しいと感じます。そうした敬愛の念を抱けるものが地球上で増えれば増えるほど、共通の心を持つ人は多くなり、価値観の違いや自己の利益を第一にした戦争は少なくなっていく。そう考えたのではないかと私は思います。
・人との競争で生き抜くのではなく、人を愛するから生きる。
・芥川龍之介、太宰治、人がどう生きるかは永遠のテーマで、正解はない、ということも、彼らは身を挺してして教えてくれたように思います
・(人間というのは)弱いというよりも無力で、何の力もない。どんなに愛する人でもさっと奪ってしまいます。運命には抗えない。私は、身の程をわきまえ、自然に対して、謙虚でなくてはならないと思いました。人が、傲慢になれる所以はないと思っています。
・母がいるから、人は生まれて、母性に見守られて、育つ。神様の次に、人類がその価値を認めざるを得ないし、未来永劫、人類が存続する限り、尊い価値であることに変わりはありません。
・自分の心が一番尊い、と信じて、自分一人の生き方をする。