農山村は消滅しない 小田切徳美著 |
そして、若者世代を中心とする農村回帰現象を見落としてやしませんかと問題提起もしています。
農村を戦略的地域(食料、エネルギー、水、二酸化炭素吸収源)として位置づける構想を提案しています。
<抜き書き>
・少子化対策を意識してスタートした増田レポートが、「消滅市町村」「消滅可能性都市」の公表を媒介として、いつの間にか、特定の地域に対する撤退の勧めとして実質的に機能し始めているのである。
・要するに、「市町村消滅」「地方消滅」が言われることにより、乱暴な「農村たたみ論」が強力に立ちあがり、そして、それに乗ずるような狡猾な制度リセット論が紛れ込むという三者が入り乱れた状況が、今、各所で進んでいるのである。
・それにしても、「数百万規模の中核都市」形成が提案されるほどの「地方消滅」と、一方で英国でも紹介されるほどの日本の若者の、「田園回帰」傾向、この両者には、あまりにも大きなギャップがある。
・2013年11月から始まり、1年を経ずして、増田レポートの事実認識やそこに示された基本方向が政府レベルでの方針と一体化している件である。レポートの発表、出版、政府内の向きが、流れるように展開しており、その過程に周到な計画性を感じるのは筆者だけでは無いであろう。
・しかし、本当に、地方、そしてその最奥にある農山村は消滅してしまうのか。本書は、そのことを明らかにすることを目的として書かれている。その際、同時に注目したいのが、近年様々なメディアで取り上げられている都市住民の農山村での移住である。その背後には、人々の田園回帰と呼べる農山村の新たなる関心がある。
・「地方消滅」が徹底的な誤謬で、田園回帰が絶対的真理であるかのような白黒つけることを、本書では意図していない。
・確かに、農山村では、地域の空洞化が進んでいる。それを筆者は「人、土地、むらの三つの空洞化」として繰り返し問題提起している。
・フィールドワーカーの目には、集落内の人口規模縮小と高齢化が進み、農林地の荒廃に引き続き、集落機能の著しい停滞や確かに捉えられていたのである。
・つまり、ここで確認されるように、一部で集落の限界化は進んでいるものの、農山村集落は基本的に将来に向けて存在しようとする力が働いている。
・数年前は、集落がなくなるという危機感があった。第一次対策が出た当初は、5年間という期間でさえ維持できないという住民の意見もあったが過ぎてしまえばあっという間だった。第一次対策の間、各家々で後継者が農作業を手伝っている光景を目にするようになり、第二期対策に取り組もうと考え始めた。お盆の帰省時には各家の後継者を交えた収穫祝いの場を設け、それをきっかけに二世代での話し合いが始まった。
・この集落では集落維持の生命線としての農地保全があり、制度を利用しながらうまく実施している。高齢者にとって負担が大きなものは他出した後継ぎが担っている。それは盆や正月だけでなく、特に近隣に他出している後継ぎが日常的に行き来しているため可能となっている。
・集落代表者が次のように言った。住み続けるためには、先祖伝来の素晴らしい地域環境をいかに守っていくかが重要だ。子や孫に、この清流、そしてホタルやカジカがいる環境をしっかりと伝えていきたい。
・既に四半世紀以前の1987年度版農業白書は、高齢化の進行の著しい中国地方を中心に、都市部に居住している農家出身のとし青壮年層の中に、土曜日や日曜日の週末に親元に帰って農業に従事するいわゆるウィークエンドファーマーと呼ばれるもの呼ばれるものが見られると記しており、こうした実態に政府も早々に注目していたことがわかる。
・つまり、徳野氏が指摘するように、家族は「空間を超えて」、農業経営に関わり、農地を維持し、そして集落の維持に貢献しているのである。
・農山村集落は、「強くて弱い」という矛盾的な統合体である。その将来は、単純なトレンドの延長で予想できるものではない。トレンド延長では、時には農山村の強さを過小評価してしまう場合があれば、逆に、過大評価してしまう場合もある。
・地域づくりの意味、このような1990年代初頭までのリゾート開発を中心とする地域活性化の反省の中で論じられたのが、「地域づくり」である。これは「まちづくり」「むらづくり」として多様に使われている言葉であり…しかし、独自の意味で語られ始めたのは、特にバブル崩壊後の90年代前半以降である。少なくとも次の三つの含意がある。第一に地域振興の内発性である。第二に、総合性・多様性である。そして第3に、「イノベーティブ(革新性)」である。人口はやはり減少する。そのことを前提とした対応が欠かせない。そこで求められるのは、人口がより少ない状況を想定し、地域運営の仕組みを地域自らが再編し、新しいシステムを創造する革新性である。
・リゾート開発に抗する地域づくりー新潟県旧山北町(現村上市)
まずは集落から内発的に、多様な新しい仕組みを作り上げていくことを目標とした地域づくり計画そのものである。リゾート開発が進行する中で、「観光開発」という領域でこうした計画が作られたのは特筆すべきことであろう。
・鳥取県八頭郡智頭町 ゼロ分のイチ村おこし運動
ここに書かれているように、提起された運動は、「誇り高い自治を確立する」ことを目的としている。そのために、集落を基盤とした住民主体によるボトムアップ型の比較・立案と実行・実践が求められている。何もないところ(ゼロ)から何か(イチ)を創り出すことが重要であり、ゼロからイチへの前進を、無限大の前進と捉えているいるのである
・地域づくりのフレームワーク
①住民自治の柱
②地域経営の柱
③交流・情報の柱
住民が単に当事者意識を持つだけではなく、さらに「誇りの再建」へ向けた意識を持つ必要がある。豊かな自然環境や濃密な人間関係は、あたかも時代に乗り遅れたことの象徴とされることがあり、そして地域の個性さえも削り取るべき対象とされることもあった。誇りの空洞化はこの過程で生まれたのだろう。
・確かに、かっては、地域づくりにおいてリーダーの存在が決定的な要素であり、そのようなカリスマ型リーダーが注目された。しかし、最近では、突出した力を持つリーダーに依存する地域づくりは、世代交代がうまくできず、持続性の点で難があると言われている。
・新しい広域コミュニティーには、集落のような仕組みではなく、地域内に暮らす人々が、個人単位で参加できる仕組みや、さらには地域にかかわろうとする都市住民やNPO 等も受け入れる仕組みを持つような革新性が求められている。
・バス会社やスーパーマーケットの専門的民間主体が経営を継続できなかった地域で、それに代替して、地域コミュニティーがいきなり事業採算を確保すること難しい。しかし公的な政策を行うにしても、コミュニティが介在することで、地域の実情に応じた対応ができ、また地域の創意工夫を引き出して、より細かい支援できる可能性が高くなる。
・カネとその循環づくり
第一は、産業の基本的性格づけである。それは「地域資源保全型経済」と表現することができる。
このような地域資源の活用は、その保全と直結している。自然や生態系をベースにする地域経済資源は、一旦破壊されると回復するためには、長い年月や高いコストが生ずる可能性が高い。それは多かれ少なかれ環境保全と両立する産業をめざすという要素を含むことになる。
・このことは、産業としての発展の契機ともなる。なぜなら、現在進んでいるグローバリゼーションは、一般に商品やその中身の画一化をもたらすのに対して、地域資源保全のプロセスは、多様な地域的条件の中で、固有の方法がとられており、特徴的な地域性が強調できるからである。
・ジャーナリストの金丸弘美氏が「ローカリーぜーションの徹底こそがインターナショナルに通ずる力を持つ時代がはじまろうとしている」とするのはこの意味においてである。
・第二は、その経済規模である。それを「小さな経済」と呼びたい。各地で行われている農産物直売所、農産物加工場、農家レストラン、農家民宿の経営から得られる追加的所得水準に相当し、これが小さな経済の具体的イメージとなろう。
・要するに、「小さな経済」が、若者の就業を実現する「中くらいの経済」を作り上げるというプロセスが新たに生まれているのである。これは、既に見た工業導入やリゾート開発という外部事業の波及効果に期待する外来型発展とは明らかに異なる。つまり、「小さな経済」の集積により積み上げられた、若者が集う「中くらいの経済」の形成、それが農山村の新しい産業の内発的な発展のプロセスなのである。
・山口県山口市仁保地区 開発協議会
2001年度農林水産祭で天皇賞を受賞、この仁保地区では、1960年代に激しい人口減少が発生した。その中で、地域リーダは「現状を放任していては仁保地区の活力がなくなってしまう」と言う強い危機意識を抱き、1969年に仁保地区地域開発協議会を設立した。1971年には、地域づくりのマスタープランである「地域開発基本計画」を作成した。そこでは地域づくりの基本理念が、「近代的いなか社会の創造」というスローガンにまとめられている。この基本計画では、より具体的には、「農業を大切にするむらむらづくり」と「子供たちに郷土の教育をする」という方針が決められていた。
・こうした長年にわたる活動の積み重ねの延長線上に、2000年には地域内に「道の駅・仁保の里」が開設された。これは道の駅であると同時に特に地域内の住民が集い、誰でもが語り合えるような場、いわば地域サロン的な活動拠点の確保を目指して計画された。
・二つの仁保方式
第一の仁保方式は、1972年大災害で被災した時、道路拡幅に必要な用地を集落全員で資金を借り入れて自主的に確保し、行政に道路の整備要求を行った。これ以降、用地買収が必要な際には、開発協議会が住民と協議し、あらかじめ事業に要する土地を取りまとめ、行政に提示する方式が定着していく。
第二には、「条件不利地域優先方式」と表現できるものである。激しい議論の末、最終的に合意された方針は、最奥の山間部の路線からの整備であった。それは地区内で地理的に最も不利な地域の整備を優先することにより、地域全体の人口減少を食い止めようとする考えによる。現実にこのことで周辺集落から始まる人口減少が防止され、その後の地区全体の衰退に対する大きな歯止めになったと開発協議会の役員らは評価している。
・新しいタイプの地域づくりコミュニティによる住宅整備ー広島県三次市清河地区
小学校中心とする地域コミュニティ、地域の人々には、小学校の特別の思いがある。単なる教育機関ではなく、地域の思いがある。単なる教育機関ではなく、地域の「砦」と意識されている。
・住民出資会社による住宅整備ー「有限会社ブルーリバー」である。短期間で三棟も動かせたのは、空き家をめぐる家主の声に次のように具体的に対応したからである。
仏壇ー整理や保管は会社で担当する
墓参り コミュニティーセンターの宿泊利用提案
修繕ー会社が担当
地域に迷惑ー会社経由で移住者に貸し出す
・岡山県津山市阿波村 あばそん
あば村宣言 周りは山だらけ、入り口が一つしかないあば村は不便でなにもない場所かもしれません。しかし、このあば村には、人間らしく生きるために大切なものがたくさんあります。このあば村の自然と活きづく暮らしを多くの方々と共有し、守り続けていくこと、そして子供たちを孫たちにここのでの暮らしや風景を受け継いでいくことを決意し、宣言いたします。
・木の駅プロジェクトーエネルギー地産地消
このような仕組み作りには、行政が積極的に関わっている。間伐材を粉砕処理するチッパーは市が購入して合同会社・あば村に貸与し、またあばグリーン公社を運営する「あば温泉」の指定管理の条件の中に燃料として間伐材のチップを優先利用するという内容を盛り込みエネルギーの地産地消を支援している。
・鳥取県の革新的政策
中山間地域活性化推進交付金であろう
この交付金を活用しようとする集落では、事前のワークショップを積み重ね、話し合いを進めれば進めるほど、事業規模申請が小さくなると言う点である。
このように、鳥取の町と県で生まれたこれらの支援策には、「内発性」「総合性・多様性」「革新性」と言う地域づくりの本質的要素の充実を促進する意図が埋め込まれている。その結果、いずれのケースでも、①主体性を促進するボトムアップ型支援、②長期にわたる支援、③自由度の高い支援という特徴持っている点は注目される。こうした新しいタイプの支援策は、その内容から「地域づくり交付金」と表現できる。あるいは自由度が高い資金をあたかも基金としてプールしたような効用を持つことから、「地域基金方式」とも言える。
・このような補助金から交付金へと補助金から補助人という二つの変化が、しばしば言われるハードからソフトへの転換の本質である。
・この地域サポート人材には大きくは二つのタイプがある。一つは専門家によるものである。もう一つは、非専門家の「地域サポート人材」である。都市部の特に若者が、の農山漁村に一定期間入り込み、地域支援活動行うことが想定されているが、彼らが初めから特別なスキルを持っていることが期待されているわけではない。
・その活動の経験から、中越地方である時期から言われ始めたのが、地域の支援には「足し算」と「掛け算」の支援がある。両者は別物だという考え方である。前者は、復興支援の取り組みの中で、特にこつこつとした積み重ねを重視するものであり、それはあたかも足し算のような作用であるとされている。
後者の「掛け算」の支援は、具体的な事業導入を伴うもので、ものが生産される、ものが売れるというような比較的短期間で形になるものである。その担い手はコンサルタント等の専門家であり、この支援ではあたかも「掛け算」のように繰り返しのように、大きく飛躍する可能性があり、またそれが期待される。そして、この「掛け算の支援」は充分な「足し算の支援」の後に初めて実施するべきものと言われている。
・ボランティアで訪ねる若者の中には、この間の集落の前向きな変化を見て、こんな素敵なところに住みたいというものが出始めていた。
・これらの若い新住民も加えて、集落では、米の直売事業や新たな特産品づくり、集落会報誌の発行、さらに集落メンバーによる地域おこしNPOの設立が次々と取り組まれた。それらは、「日本一にぎやか村プロジェクト」と呼ばれている。
・田園回帰
総じて言えば、20歳から40歳代の青壮年層で、今までにない形で田園回帰傾向が強まっている。しかし、それらは直ちに定住と言う現実に結びつくものでは無い。
・筆者によるヒアリングからは、農山村に移住した者に関わるいくつかの特徴的な傾向が浮かび上がってくる。
第一に、最近ではやはり20歳から30歳代の移住者が目立っている。
第二に、若い夫婦での移住が多いことである。
第三に、移住後の職業は、従来は専業的農業就業を目指すものが多かったが、必ずしも農業のみではなくなってきている。むしろ農業を含めた、いわゆる半農半X型が多数を占めている。つまり、兼業農家または自給的農家を目指し移住を始めるケースが目立つ。第四に、移住の入り口として、 地域おこし協力隊等の制度を積極的に利用するものが多いことである。協力隊と言う仕組みが、移住のハードルを下げる役割を果たしていることを示唆している。
・若者意識の変化
第一に、地域について村やそこに暮らす人々に対する意識が変わりつつある。「集落のあたたかさ」、「田舎のおやじやおばあちゃんたちはすごい人たちばかり」、「かっこいい」という形容詞を、聞き取り調査ではよく聞かれるものである。
第二に、仕事について、それに対する意識の変化しつつある。半農半X型の仕事の存在は既に10年以上前から論じられていたが、最近ではXの部分は先に見たようにいっそう多様になっている。例えば夫婦で年間60万円の仕事を5つ集めて暮らすことを目指すという発想は、移住夫婦にはしばしば見られる所得目標である。
・島根県邑南町の挑戦
特に有名なのは石見町による「香木の森研修制度」の取り組みである。 1993年から始まったこの取り組みは、ハーブを素材として、その栽培・加工を1年間研修すると言うものであった。定員は6名応募条件は、原則として22歳から35歳の独身女性であり、毎年数倍の競争率だったと言う。しかも、2013年までの21年間で102名の研修者のうち、34名が町内に定住していることが注目される。
・少し不便でも、人のつながりの中で暮らして良かったなと感じられる街が理想郷だと思います。邑南町はその理想郷を目指していきます。
・農山村移住の課題
三大問題ー 仕事・住宅・コミュニティー
・なぜ農山村は消滅しないのか
第一に、農山村では、高度経済成長期以来、「人、土地、村」の空洞化が段階的に進行した。しかし大多数の農山村は今に至るまで維持されている。それは何よりも、集落に居住する人々のそこに住み続ける強い意思によって支えられていた。その強さはとりわけ高齢者に見ることができた。
第二に、このような農山村の弱さを抑え、強靭性を伸ばす仕組みが、地域づくりであった。バブル経済の崩壊とともに、その多くの施設運営や企画の実践が頓挫している。そのため、そのような開発とは異なる内発性、総合性・多様性、革新性を意識して地域づくりが進められ始めたのである。第三に、このような地域づくりの動きは地域的に見れば、中国山地に活発な取り組みを見ることができた。そこでは、多様、多彩な動きがあり、あたかも地域づくりのショーウインドーの様相である。その背景には、この中国山地から「過疎化」と言う言葉が生まれたように、空洞化が国内で先発的に進んだことがある。それに行する抗するように地域づくりも先発した。「解体と再生のフロンティア」と言えるが、それは困難の中でも地域を消滅させまいとする地域づくりの力強さを示している。
第四に、このような地域づくりを支える政策も急速に整備されつつある。そのベクトルは補助金から交付金、補助金から補助人と表現されるものである。第五に、このように地域づくりの進む地域に向かい、都市部から農村部への人の流れが活発化している。
・人口減少の時代に、多くの国民が納得できる、より大きな枠組みに農山村を位置づける戦略的視点であろう。当面二つの戦略が考えられる。一つは農山村内部の視点からの低密度居住地域構想であり、もう一つはその全体の位置づけとしての国内戦略地域構想である。過疎化とは、地域の人口の低密度を意味している。しかし農山村では、その土地利用を伴う農林業という生業のために、人々はもともと低密度に暮らしていた。そこで必要になるのが、従来以上の低密度での生活のシステム作りである。
・国内戦略地域構想
「戦略物資」としては、食料、エネルギーのみでなく、水、二酸化炭素吸収源としての森林も当てはまる。そして、それらは日本国内では、いずれも多くが農山村から供給されている。したがってこれらを供給する農山村は、国際的視点から見れば、戦略地域と位置づけられ、その保全や再生が国民的課題とされるべきものであろう。
・つまり成長路線を掲げ、「農村たたみ」を進めながら、グローバリぜーションにふさわしい「世界都市TOKYO」を中心とする社会を形成するのか。そうではなく、国内戦略地域である農山村を低密度居住地域として位置づけ、再生をはかりながら、国民の 田園回帰を促進しつつ、どの地域も個性を持つ都市・農村共生社会を構築するか。こうした分かれ道が私たちの目の前にある。
どっこい、増田レポートに指摘されるようには農山村は弱いものではなく、
農山村は強靭でもあるが、なにかのきっかけで折れてしまうこともある
農山村が維持されるためには、内発性が重要である。
農山村への回帰現象が、若者の間にみられる
仕事ありきでなく、ここに住みたいと思えれば、仕事は見つかるが、
半農半X的な生き方が、認められつつある