今を生きるしあわせ 河野義行著 |
でも、やっぱり凄い人なんですね・・・・
・何があろうとも、現実の小さな喜びを見つけて、そのとき自分にできることを精いっぱいやっていく。それが昔もいまも変わらない私の生き方であるとともに、人生に希望を見出す方法だと信じているのです。
・「あれだけひどい目に遭ったうえに、奥さんがこういう状態になって大変ですね」何度なぐさめられたかわかりません。けれども、私は一度も大変だと感じたことがないのです。落ち込んだり、泣き叫んだりしたこともないし、自分が不幸だと思ったこともありません。わが身の不運を呪ったり、先行きを悲観したこともありません。
・意識不明の妻の介護をするのは、たしかに物理的に楽ではありません。しかし、精神的には楽するのも苦しくするのもその人の考え方しだい。こころの置き方のよって、いくらでも状況を変えることはできると思うのです。
・だれもが平均寿命をまっとうして、八十余歳まで生きられるわけではありません。であるなら、最愛の人が亡くなったときは、たとえ与えられた人生の時間が短かったとしても、その人が生きた軌跡を尊重したい。早く訪れた死を嘆くよりも、その人の生涯を肯定してあげたほうがいい。
・私は若いころから、人生には限りがあるんだから、いつもいちばんやりたいことを優先しようと考えていました。やりたいことをやり、わが身に起きたこ結果は自分で責任をもつ。そうした人生観が根っこにあったから、あの事件の渦中でも腹をくくれたと思うのです。
・要は、私は自分の人生を大切にして、楽しく生きていきたいのです。人生は長いか短いか、いつ終わるかわかりません。そこに思いを巡らせば、いま自分にとって大事なものが見えてくるはずです。私にとっての優先順位の一位は家族で、二位が趣味でした。
・わたしの生き方は、「人生を存分に楽しむ」というのが基本です。
・私はたぶん、仮に一文無しになったとしても、いまここにある環境のなかで楽しめると思っています。食べるものが買えなければ、山のもの海のものを採って、おいしいおいしいと食べるでしょう。食べるものが少なければ、あるだけの必要な分を食べて、ほかに小さな楽しみを見出すことができるでしょう。
・それが可能だと思うのは、ふだんから趣味を広げてきたからです。どんな状態でも幸せを感じられるのは、楽な生き方といってもいいかもしれません。
・とにかく仕事をするにも、たのしまなければ損だと私は思っています。
・魚でも獣でも、食べるぶんだけ捕る。そして、あとはぼんやり海や山を眺め、空を流れる雲を追い、沈みゆく夕陽を見て寝るだけ。私は、それが人間のいちば幸せな生きる姿であり、できればいつかそんな暮らしをしたという願望をもっています。
・六十歳で収入がなくなったら、5万円の基礎年金で生活すればよい。5万円で生活できなくなったら食べなければいいのです。わたしは真剣にそこまで想像しています。食べられなくなくなったら、そこが自分の人生の限界だという、ある意味で覚悟というか、諦観というか、思い切りみたいものが私の中にあるのです。
・還暦過ぎてまでしゃかりきに働かなくても、豊かに楽しく生きていけるのです。なかば隠居の暮らしを選んで、正解だったなと私は思っています。
・疑惑が晴れた後はまた、多くの人とのすばらしい出会いがありました。・・・さんざん闘ったマスコミや警察の人々、オウム真理教信者だった人たちの中にも、親しくなった人がいます。
・(スクープ合戦、容疑者報道)最もひどかったのは「週刊新潮」でした。河野家の先々代にまでさかのぼり、おどろおどろした先祖の捏造記事を掲載されました。いま、この記事を読めば「なんだこれ」と思われるかもしれませんが、警察が犯人視している状況では「さもありなん」と読めてしまうのが、報道マジックであり怖さです。週刊「新潮」のキャンペーンは、その後も延々と続きました。
・週刊「新潮」だけは、疑惑が払拭されてからも、先方とこちらの弁護士を交えて決めた内容の謝罪掲載を反故にされています。「週刊現代」や「サンデー毎日」は自主的に謝罪をし、「週刊現代」は検証記事を二週にわたって掲載しています。マスコミの記者の中には、松本の自宅を訪れ、記者として人間として謝ってくれた人あちがいました。澄子のお見舞いにたびたび来てくれた人たちもいます。しかし、週刊「新潮」は許容できません。
・松本サリン事件が起きてから五、六年が過ぎたころ、オウム真理教の元信者の人たちが、澄子の見舞いに来てくれるようになりました。澄子の容体を心配してくれる人にオウムも何もない。私は、彼らを迎え入れました。
・とにかく、私はだれに対しても、恨んだり憎んだりしたくはありません。人を恨み続けるというのは、途方も無いエネルギーがいる行為です。限りある人生、そんなことにエネルギーを使うのは時間の無駄でしかありません。
・なぜあなたは恨まないのかという、その究極の答えは、だれのためでもなく、自分の人生を大切にしたいからです。私は自分のために、恨まず、憎まず、与えられた人生をたのしく生きていきたいのです。
・私は、いざ人生に区切りをつけてのんびり暮らしてみて、今の自分がいちばん強いのではないかという気がしています。失うものが何もないのが、まさしく最強なんだなと実感しているのです。
・結局、何が人を不安さえるのかというと、みな失いたくないものをもち過ぎているのです。ヒューム管に住んだって、卑屈にならず、楽しく暮らせる自信があれば不安なんかなくなってしまいます。
・要は、お金があろうかなかろうが、生きることを楽しめばいいわけです。
・私は、人間の行動の原点というのは、「思うこと」だと考えています、。こちらへ行きたいという方向があるなら、ひたすらそう思うこと、そこから自分なりの幸せに向かう道が、きっと広がっていくでしょう。