梅棹忠夫ー「知の冒険家」の思想と生涯 山本紀夫著 |
・パーティーにおけるリーダーシップとフォロワーシップの問題を、わたしは骨の髄までたたきこまれた。これについては、わたしはのちのちまでも山に感謝している。すべては山を通じてえられたものだからである。
・梅棹は、それまでに集めた数千個体の昆虫標本をすべて、三高時代に捨てている。・・・この変化は、自然を、昆虫にせよ、植物にせよ、標本にして切りとって見る、いわば死物学から、自然をありのままでみようとする生態学への展開であったにちがいない。
・梅棹は「未知のものと接したとき、つかんだときは、しびれるような喜びを感じる」と述べているのである。
・「環境問題をかんがえるにあたって、生態学的思考は絶対に必要なのであって、それを無視したのでは、まるでおかしなことになるであろう」と1951年頃から述べている。
・要するに、インドは東洋ではない、中国を中心に発展してきたわれら東洋諸国とは、本質的に文化的伝統を異にする世界である。ひとりの日本人留学生は、うまいことを行った。「ここは、中洋ですよ」
・じつは、この「南極越冬記」も、梅棹のサポートがあった。サポートというより、この本は梅棹がいたからこそ完成したといってもよい。(何度も読んだけどな・・・・)
・私には、自分はどこから来て、どこに行くかという心煩いが一切ない。人間は空空ばくばくから出てきて、空空漠漠に消えていく、それだけのことだと思ってます、どこかいいところに行くとか、還るなどという妄想はまったくありません。
・わたしはうれしかった。盲目者が本を出版することができたのである。盲目の書家も、盲目の画家も、盲目の写真家も成立しないのであろう。しかし、盲目でも本をあらわすことはできたのである。
・両眼の視力をうしなったときには、わが人生はおわったのかとおもった。しかし、わが人生はおわらなかったのだ。たくさんの人にささえられて、この人生の中じきりをつくりえたことに、わたいは一種の安堵感をおぼえている。
・とにかく、感心させられることは、梅棹が視力を失ったことなどものともせずに、新しいことに挑戦しようとする態度である。おそらく、この背景にも、あくなき好奇心の存在があるように思われる。そして、このような、あくなき好奇心があればこそ、さまざまなことへの挑戦も可能になったのである。
・開拓者として生きることにのみ、真のいきがいをもとめえたのであった。(中略)われわれは、なによりも、未知の領域を欲していたのだ。