街場の文体論 内田樹著 途中で返却です、時間切れ |
・僕は「書く」ということの本質は「読み手に対する敬意」も帰着するという結論に達しました。それは実践的に言うと、「情理を尽くして語る」ということになります。
・文章を書くということは、いつだって「限界に挑戦する」ということなんですよ。わがうちなる「バカの壁」。わがうちなる「凡庸の境界線」を踏み破ってゆくことなんです。
・今の日本のような、地殻変動的な社会の変化が起きているときには、マジョリティが「正しい方向」に進んでいたら、これほどの社会変動が起こるはずはありませんから、マジョリティが「行ってはいけない方向に」逸脱していったからこそ、制度がきしんで、システムのあちこちが綻びている。そうじゃないかと僕は思っています。生き延びるためには、みんなは向こうに行くけど、自分は「こっち」に行ったほうがいいような気がするという、おのれの直感に従うしかない。そういう危機に対する「センサー」を皆さんにはぜひ身につけていただきたいと思うんです。
そして、そのセンサーを研ぎ澄ますためのきわめて重要な訓練が「ものを書く」ということなんです。
・文章を書くというのは、自分の内側に潜っていくことだと村上さんは書いています。どこまでもどこまでも、ずっと入り込んでいく。すると、自分の個別性や個性というものの限界を越えて、その先まで突き抜けてしまう。「鉱脈」という言い方をしたこともあるし、「暗闇」ということもある。
・皆さんの中には、学術論文を書く人は、書き始める前に、頭のなかにはもう、「書くべきこと」が全部そろっていて、ただそれを、順次「プリントアウト」しているだけだと思っている人がいるかもしれません。違いますよ。そんなわけないじゃないですか。自分がこれから何をかくことになるのか書く前にはわからないんです。
・ものを書くときには、「何かが来るのを待つ」ということ。そして、「つかまえるのには技術が要る」ということ。とりあえず、このことを皆さんは覚えておいてください。
・すごく面白い本を読んでいるときは、残りページ数がすくなるなるとだんだん切なくなりますね。ああ、この物語の世界に浸っているのもあとわずかだと思うと。それって老いて、死を待つ人間の気分にちょっと近いんじゃないでしょうか。自分に残されたわずかな時間を思う存分享受しよう。そういう気持ちで、味わい尽くすように最後の一行まで読み、読み終えたときに、「ああ、もう少し読んでいたかったけどど、まあ、十分に楽しませてもらったから、これ以上欲は言うまい」というぐらいの、ほどよい不満と、ほどよい満足がないまぜになったような状態を目指します。
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