往生の極意 山折哲雄著 |
・リュックが背中にへばりついている。ただ、そういう背中には、申しわけないことだが、威厳がない。人間の存在が匂い立つこともない。やはりヒトの背中には、何もないのがいい。・・・背中を見せて、この世を去りたい。
・最初に触れた殺意の偏在を自殺へと後押ししたものが、日本の社会が史上初めて人生八十年時代を迎え、新しい死についての知恵を技術を編み出さなければならないのに、たんに死を隔離し視野の外においたことだったと思います。
・人を食うか、我を食うか
食べるものがだんだんになくなり、死に迫られたとき、一つの選択は他人を食べて生き残ることです。カニバリズムの原初的形態がそこで出てきます。もう一つの選択は、自分を食べてできるだけ長く生きることです。
・社会心理とか経済困窮とか病気とかを背景に据えるのではなく、わが身を食べるという選択の視野に自殺をおいてみるのです。
・自殺を考えることは、人類の未来について考察する一つにの有力な視覚でもあるのです。先ごろもメディアが「去年も年間三万人を超える自殺者」と大見出しで報道してましたが、そういう現象ばかり追うやり方はもう止めてほしい、より根本的な問題として理解すべきではないか、そう思います。
・ゴミの山に埋もれて孤独のうちに死んでいく人間の姿、これは現在の臨終の光景を象徴している、そう言うこともできるでしょう。
・「死にに行く」という日本語には歴史があるのです。涅槃願望の現れと見ていいのではないか。自殺者に向かって生きろ生きろと叱咤するのはとても残酷なことだと思います。
・だから自然法爾とかをエコロジカルな論理の視点からあれこれ解釈するのではなく、自然に溶け込み消えていく(往生)実感を大切にしてとらえた方がいいのではないか。親鸞自身がそういう実感を大事にするようになったのだと思います。その境地は素朴な法悦感に包まれる死(往生感覚)でありつつ、洗練された法悦感でもあるような死に限りなく近づいていきます。
・隠居は近世になってからの現象でしょうが、庶民の日常生活や出処進退にも「隠れる」考え方が浸透していきます。隠居した人は一種のカリスマ(翁)として周囲の人から尊重される、そういう慣習が近代になっても続いていたのです。
・「遠野物語」には印象深い話が出てきます。リアルな話しとして、ダンノハナにちなむ話がそこにあります。これは、蓮台野という場所でもあって、六〇歳を過ぎるとだれでもその一種の姥捨て的な世界に移動させれます。「遠野物語」では、姥捨てのように捨てられて死ぬのではなく、老人たちは里を離れ、そこで共同で暮らすのです。・・・この老人共同体に象徴されるものが、庶民的というか日常的な往生の一つの仕方だと見ていいと思います。
・いわゆる姨捨伝承の暗さがここには見られません。立派な老人共同体が同時に共同墓地に重なっています。じつに合理的でしたたかな仕組みで、見事に棲み分けしている。老人を活かす大変な知恵ですが、そういう形で行方不明になっていた老人が沢山いたことでしょう。
・「隠れ往生」をのぞむ人には、隠れるための場所を用意することがあってもいいし、「隠れ往生」願望に向かって宗教者が積極的な役割を果たすことがってもいいのではないかとも思っているのです。
・生ぜるもひとりなり、死するもひとりなり、さすれば人と共に住するも独りなり、そひはつべき人なきなり。一遍
山折さんの自殺に対する考え方、高齢者にたいするあり意味での厳しさに新鮮な感じを受けました。
遠野物語の例は、これからの高齢者対策には大事に視点がありますね。若い人に迷惑を掛けることなく、同世代間で面倒を見るという考え方ではないでしょうか!