隠される原子力 核の真実 小出裕章さん その2 |
JOCの事故の様子もちょっと、ショックでありました。
・日本というこの国では、未だに1キロワット時の発電すらしていない「もんじゅ」に限っても、すでに1兆円をこえる金を捨ててしまいました。
・こんなでたらめな計画を作った歴代の原子力委員会委員は誰一人として責任を取らないまま、原子力界に君臨し続けています。
・人類は死の灰を生み出すことは出来るようになりましたが、死の灰を無毒化する力を持ってはいません。そうなれば、できることは死の灰を人類の生活環境から隔離することしかありません。
・現在日本には54機、電気出力で約4800万キロワットの原子力発電所があり、それが流す温排水の総量は1000億トンに達します。日本の全河川の流量に換算すれば約二度も暖かくしていることになり、これで温暖化しなければ、そのほうが不思議です。
・現在の原子力発電所は、燃料の健全性の制約からタービンに送る蒸気温度を高々280度までしかあげることができず、発電の熱効率は約33%でしかありません。
・火力発電所を都会に建てて、コジェネを使えば、総合のエネルギー効率を80%にすることも可能です。
・地球上の二酸化炭素はそのほとんどが海水中に溶け込んで存在しています。気温が上がることで、海水の温度が上がり、海水に溶け込んでいた二酸化炭素が大気中に出てくることは当然です。
・現在、北極の白熊などが絶滅の危機に瀕しているのは温暖化のためではなく、人類が地球上にはびこりすぎ、他の生物の生命環境を侵食してきたからです。
・貧弱な資源、成り立たない経済性、破局的事故の怖れ、見通しのない廃物処分の重荷のために、一時は原子力に夢を抱いた世界の国はすでに原子力から撤退を初めています。
・原子力は即刻やめても困らない!原子力発電が生み出したという電力をすべて火力発電でまかなったとしても、なお火力発電所の設備利用率は七割にしかなりません。それほど日本では火力発電所が余ってしまっていて、年間の平均設備利用率は五割にもなりません。
・公正な世界を作るために、不平等な条約を足場にすることが可能かどうか、わたしは深く疑念を持ちます。その上、核保有国は核の独占体制を維持しようとし続けていますし、原子力=核の世界でも、核技術の支配を維持しようとしています。
・各再処理工場が抱える膨大な危険 日本の原子力発電所が生み出した使用済み核燃料は英国とフランスの再処理工場に送って再処理してもらってきました。再処理はすでに述べたように、軍事のために開発された技術です。そのため、それがどんなに不経済であっても、どんなに環境汚染を引き起こしても運転が許されました。「平和利用」を標榜して行われる日本の六ヶ所再処理工場の場合は、なによりも経済性が重視されます。
・原子力発電所を含め、再処理工場をのぞくすべての核施設は放射能物質を環境に捨てる場合、原子炉等規制法によって濃度規制を受けます。しかし、日本の国は、再処理工場の場合には、原子炉等規制法の規制から除外し、濃度規制をしないことにしてしまいました。
・六ヶ所再処理工場から放出が予想され、実際に放出されるだろう放射能の一つにトリチウムがあります。海に放出が計画されているその量は年間1万8000テラベクレルで、一日当たりにすれば約60テラベクレルです。
このトリチウムを原子炉等規制法で放出することが許される濃度(一立法センチ当たり60ベクレル)までトリチウムを薄めようとすれば、毎日100万トンの希釈水が必要になります。
・本当のことを言えば、六ヶ所再処理工場は現状でも経済性はすでに破綻しており、経済的な考慮だけから判断するなら、当然放棄されるべきものです。
・エネルギーと寿命 第一に、利用できるエネルギー量が絶対的に少ないと、人は長生きできないということです。第二には、絶対的に不足していたエネルー消費量をわずかに増加させることができれば、寿命が飛躍的に延びるということ、第三に、ある程度以上のエネルギー消費は寿命の延長に役立たないということです。
・1960年代の高度成長期やバブル期を含めた1990年前後にいは、エネルギー消費は急激に伸びましたが、その期間における寿命の延びはほんのわずかでしかありません。今の日本では、生きることではなく、贅沢をするためにエネルギーが使われています。
・つまり、今現在、私たちは日本で自然現象を起こしているエネルギーの約三倍のエネルギーを人為的に使っていることになります。
・日本を含め「先進国」と自称いている国々に求められていることは、何よりもエネルギー浪費社会を改めることです。あらゆる意味で原子力は最悪の選択ですし、代替エネルギーを探すなどという生ぬるいことを考える前に、まずはエネルギー消費の抑制こそ目を向けなければいけません。
・残念ではありますが、人間とは愚かにも欲深い生き物のようです。種として人類が生き延びることに価値があるかどうか、私にはわかりません。