久しぶりの内田節 ラジオ |
声の深い人は、「多声的」(polyphonique)である。
一人の人間なのに、その声の中に「複数の声」が輻輳している。
大人の声に少年の声がまじり、おじさんの声におばさんの声がかぶり、謹厳なサラリーマンの声にやさぐれた悪漢の声が唱和する。
だから、その中のどれかに聴き手は「自分の周波数と合う音」を聴き出すことができる。
多声的な人は、いわば「ひとりオーケストラ状態」を実現している。
聴き手はそこに「和音」を聴くこともできるし、ある一つの楽器のフレーズだけを選択的に聴くこともできる。
この聴き手に与えられている「居住域の広さ」が聴き手に「ほっとする」感じを与えるのである。
何度も書いたが、太宰治は多声的な文体を操る天才であった。
「子供より親が大事と、思ひたい」とはご存じ『桜桃』の冒頭の言葉だが、この言明は「子供より親が大事なはずがない」という否定言明を同時に発信している。
同一の言明のうちに、肯定否定のふたつの命題が輻輳している。
こういう言葉の使い方を「多声的」と私は呼んでいる(「倍音的」という言い方をするときもある)。
こういう多声的なエクリチュールを使えるその人のうちでは、現に「複数の人格が共生している」という事態が起きている。
だから、その人が一言発するごとに、それに「セコンドします」という賛同の声も、「ちょっと・・・どうかな」という懐疑の声も、「ふざけたことを言うな」という否定の声も、「あ、そういえばさ」と「ずらす」声も、相次いで聞こえてくる。
そういう声を聴いていると、私たちは「ほっとする」。
というのは、そこで語られているコンテンツの正否についてはとっさには判断できないのだけれど、「こういう語り方をする人になら、ついていっても、たぶん『それほど悪いこと』は起こらない」ということは最初の一声で確信されるからである。
間違いなくその人のステートメントのうちには「自分の声」も含まれているからである。
この人は(たとえ部分的にではあっても)、私の気分や意見をも代表してくれる。
そういう確信がすると、私たちは緊張を解いて、なんだかゆったりした気分で人の話を聴くことができる。
そういう「被代表感」(変な日本語だけど)を聴き手に与えることができるパーソナリティがラジオでは重用される。
テレビのワイドショーやバラエティやトーク番組には、こういうタイプの「深い声」の人はまず出てこない。
視覚優位なテレビメディアでは、音声的には「わかりやすいコンテンツ」が最優先で要求されるからである。
最近はラジコで、少しずつ聞いていますね、