ランニングは美しく強い脚をつくるアートである 日経新聞 編集委員 吉田誠一 |
なぜ走るのかと考えたとき、それは、人がもともと走る生き物だったからではないかと思えてくる。走らないと、生き抜けない時代が、ずっと昔にあった。何度か書いてきたことだが、だから人は今でも走るのではないかと思う。
人を走らせる遺伝子が体内で騒ぐのだ。走ると快感を味わえるということを、人は体の奥底で知っているのだ。
■恐怖感が潜んでいるから
走らないで済む時代があまりに長く続いているために、人はこの快感を忘れてしまったのかもしれない。走らなくても済むのだから、走ることは単につらいことになった。わざわざ走ることはないじゃないかということになった。
しかし、何かのきっかけで、突如として走り出す人は少なくない。それは、もしかすると走れなくなることの恐怖感が体のどこかに潜んでいるからではないか。
うすうすと恐怖を感じるのは、走ることが生きることだったということを、みな遺伝子からの情報で知っているからではないか。生き抜くためには走る脚を保持しなければならなかった、ということを何となく認識しているがゆえに、人は今でも突如として走り出す。
■美しい脚はスピードと耐久性を生む
脚がほれぼれするようなものにならないということは、つまりトレーニングが足りないということだ。トレーニングの仕方、走り方が間違っている場合もあるだろう。走るスキルが劣るから、美しい脚がつくれない。やはり、これはアートなのだ。
当然のことながら、脚が美しいものになっていくと、機能性も増してくる。美しい脚はスピードと耐久性を生む。 機能性の高いアスリート、つまり強いアスリートは美しい。おそらく獲物を追っていた狩猟民も美しい脚を持っていただろう。余計なものが一切なく、ごつごつとしていて、彫りが深く、陰影があって、味のある脚を持っていたはずだ。
■気持ちがどんどんワイルドに 美しく強い脚を獲得するまでは走り続ける
私はその脚が欲しいのだ。だから、こうやってあえぎながら走っている。その脚を獲得するまでは、走り続けなくてはならない。ドイツの身の引き締まる冷気の中を走っていると、どういうわけか、その思いが強まってきた。
気持ちがどんどんワイルドになっていっていく。脚は止まらない。あの大きな木のところまで走ったら、Uターンして帰ろう。待てよ、この坂を上りきったら、どんな光景が広がっているのだろう。
すると、また気持ちのいい森が見えたりする。あの小道に入ってみたらどうだろう。
■体にも脳にも、いい刺激
知らない土地を思いのまま進むランニングには、距離を決め、ペースを定めたトレーニングにはない楽しみがある。体にも脳にも、いい刺激が入る。
こういう気ままでワイルドなランニングをしないと、味のある脚はつくれないのかもしれない。自然の中に身をさらさないと、美しくて強い脚はつくれないのかもしれない。
彼は41歳から走り始めたそうです、私は、61歳から走り始めました。いつまで、続けることができるのか、美しい脚ができる前に、潰れそうですが・・・