遊雲さん 父さん 有国智光著 |
母さん、
普通の父さんと違いますね、何か、悟り切った感じで、がんにかかった息子を見守っている感じがします。 2010.11.13
お父さんが浄土真宗のお坊さんであることもあるが、息子にしても、家族にしても、考え方が素晴らしいですね。家族に不幸があったときでも、このように対応できれば素晴らしいことを思います。
<抜書>
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2017年 07月 31日
小児がんを生きたわが子との対話
母さん、 ありがとう。 みんなにも ありがとうって 言ってね。 ぼくは、もういきます。 なにかに紹介されたきっかけで、読み始めました。 普通の父さんと違いますね、何か、悟り切った感じで、がんにかかった息子を見守っている感じがします。 2010.11.13 暑い暑い夏の日に、読み返ししましたが、良い本でした。 マスコミでは、がんの早期発見、早期治療を大騒ぎで伝え、がんと闘う人を取り上げています。 でも、この本を読んでいると、そんなことは違うんだよね〜と思います。 池田晶子さんによれば、「人は、がんで死ぬのではないのです、生きているから死ぬのです」とあるように、がんにかかったことが大事じゃなくて、今をどう生きるのかが大事だと思います。 お父さんが浄土真宗のお坊さんであることもあるが、息子にしても、家族にしても、考え方が素晴らしいですね。家族に不幸があったときでも、このように対応できれば素晴らしいことを思います。 何が、あっても、大丈夫! 2017/07/31 <抜書> ・親と言う言葉の語源は「老ゆ」だそうです。産卵のために川を遡ってくる鮭は、途中でけがをしても、もう自分の体は治りません。自分自身の明日を放棄して、次の時代へつないでいます。老いるとは、結局そういうことではないか。つまり、自分自身の可能性を実現することよりも、「つなぎ」にまわることが日常的に優先され始めた時、私たちは現実に親になるのではないでしょうか。 ・ 一番大事なことをもう一言、言わねばならぬと感じた。ほとんど切羽詰まって、思わず「でも、何があっても、大丈夫だからね」と口に出た。 ・あきらめるとは無気力になったりなげやりになったり、ましてや絶望することなどではない。「明らむ、諦め」と言うのが本当の意味だ。もっと簡単に言えば、お父さんは「任せる」ことだと思っている。もう任せるしかなくて、任せた時に感じられるほんわかとした心地に浸って、大きなものにゆったりと包まれるのが、諦めることだ。 ・極端な話をするならば、今入院してつらい化学療法に時間を使っていること自体が、残された貴重な時間の浪費になっている可能性もあるのです。治療を続けるかどうかも、いつかは考えなくてはならなくなるかもしれません。 ・何もわからない。何もわからないことが心地よく、何もわからなくてよいところでみんなーー草も道具も、息子のガン細胞もーー生きている。その事実がいとおしい。 ・「我」に軸足を置いてしまう限り、死は我が消失することにほかなりません。「この私」と言うかけがえのない特殊・個別が、不気味な全体の中に飲み込まれ消え去ることです。しかし本当にそうか。 ・放っておいたならば孤独な「死」にしかないなりえないこの私の生の終わりを、「往生」として大きな<いのち>の全体への摂め取るために、常にこの私に寄り添ってはたらいてくださってあの慈悲の業力、それこそがお浄土の本当の姿なのでした。 ・もう一つは、死を端的に生の「外」にとらえる態度です。これに徹した時、実は死そのものについては何も語る必要はありません。逆に、この生全体が、「今」として浮かび上がります。 ・生の外にあるもの、「わからない」ものこそが、死である。死を直視するとは、私の生を包んでいる大きな全体に気持ちを開くことだったのだ。閉じて安住するのではなく、開いて、今ここに生きていることのただことでなさに、心を震わせることなのだ。 ・ただ逆に聞こえるかもしれませんが、孤独に出会えないとさみしい。自らが深く孤独と対峙したところに、同じ孤独な他者と共感する地平も拓かれれてくる。それを含めた「救い」をなんとかして一人でも多くの人に紹介したい。 ・一般に恐れられ往々にして目を背けられている「死」とは、実は単にある生物個体の生が終わるという生理的な出来事ではなくて、むしろ実態はこの「孤独感」なのではないか、と。 ・一見過酷に思えても、目をそらさず直視し続け、そのままに引き受けることができたならば、「私」が突き落とされている孤独の裏に、暖かく大きな「全体」の動いていることが、必ず感じとれる時がきます。 ・その中で、できる治療に専念し、何があってもおろおろしながら楽しんでいこうと思う。そうでなければもったいない「貴重な」出来事ではないですか。 ・「ともぼう・宇宙は無限なんだよ。じゃからね、どこをとってもそこが宇宙の真ん中なんだよ」 ・わからないものに対しては、ただ開いてうちまかせればよい。そこに、「楽しい」ものがおのずと立ち顕われてくる。何かを伝えようとするから伝わらない、根拠を求めるから歯切れが悪くなる、要はただひたすら楽しめばよいー。仏法不可思議とは、そういうことなのでしょう。 ・遊雲はあのつらい化学療法を「辛抱して耐えている」のではなく、「遊んでいる」のだと分かったのです。そうか。それならばまこと、あの子は何があろうと大丈夫だ。治るものならば当たり前に治り、治らない縁であるならば真っ当に命を終えていく。ただ不満を言うことなど思いつきもせず、いつも目をキラキラさせ、ニコニコしたまま。 ・右も左も、全景が「がんばる」と「治ってよかったね」で埋められてしまっている中で、何とも言えない息苦しさを感じているのです。頑張らなかったら悪いのか。治らなかったら負けなのか。いちど立ち止まって、使えない慣れ聞き慣れた言葉の先入観を離れ、ゆっくり考え直してみてください。実は、「がんばり続ける」ことこそが「苦」であり、地獄に居つく原因なのです。 ・治ってよし治らなくてもまた良し。その中で何と比べるのでなく「端的な今の出来事」として、大きな背景の中に退院を喜びたい。そうすれば、退院できなかったとしても、同じ気持ちの運びようでいることができるはずです。 ・目標と言う未来に頼らず、成果と言う過去にすがらず、ただ宙に浮いた今 ・現在のみを見つめ、そこに徹するー。 ・何もしないと強張るのは、頑張り続けるのと同等だ。父さんはもう頑張らない。しかし決して放棄もしない。その時そのときのご縁のままに、静かに確かに入れ動く。いや、揺れ動くのではないな。ひかれる方へ、逆らわずに落ちていく。流れるとはこういうことなのかもしれない。私は水だ。水になろう。生きるとは流れることだったのか。 ・父さんは、遊雲さんを支えたかった。しかしようやく、その思いがいかにピントはずれだったのかわかった。人間は誰も、独りで生まれ、独りで死んでいく。誰にも代わってもらうことのできない自分自身の生を、結局はただ独り、生きる。 ・今がすべてなのだ。今だけで良いのだ。たったそれだけのことに気づくのに、なんと遠回りしてきたことかー。 ・遊雲さんの言葉を借りれば、「死ぬことをきちんと考えるって、本当はそんなに大変なことじゃなくて、今を精一杯楽しむってこと」だったんだね。父さんも、父さんの生を生き始めよう ・お父さんにも、ようやく生きる覚悟ができたようだ。遊雲さんを見送ってなお生きていく覚悟が。覚悟が持てて見てやっとわかった。遊雲さんは「死にかけて」いるのではない。いつも、その時そのときに命を輝かせているだけなのだ。 ・それに気がついたときに、生と死を互いに相反するものであるかのように位置づけるのではなくて、「生死」と一つに見ることがいかに自然であるか初めて納得できました。仏教では、生死事はそのまま「迷い」のことです。ところが無理に死と切り離して生のみを自分に引きつけておこうとしていると、真っ当に迷うことすらできない。 ・死も取り込んで生死と受け止めるには、しかし、最低限の覚悟はいるようです。「ほかに逃げ場はないわな」とうなずく、枯れた静かな覚悟です。 ・生きる覚悟を持って、生きる覚悟を決めてもらって、生き始めた時、何事もわがことになる。何事にもわが事として出会っていける。・・・・静かに身を預けて寄り添っていこう。辛さにも苦しさにも、おびえに対しても。寄り添ってみさえさえすれば、必ず向こうから支えてもらえる。つらさや苦しさが、実はこんなに優しいものであったのかと驚かされる。 ・当人及び家族が新しい現実を受け入れ、がんをも取り込んだ「日常」を過ごしている中に、がんと言う言葉に圧倒されて呆然としている見舞客が紛れ込むと、どっちが病人なのかわからないような有様でした。 ・たとえわが子といえども、遊雲を変える権利もなければ必要もない。人ごとではなくて私自身が、ただ遊雲に出会えば良いだけのことだのでした。 あの子は何があろうと、大丈夫です。 ・遊雲さんに遊雲さんの今の毎日があるように。それでいい。遊雲さんを含め、みんな、そうやって生きているのだから。何があっても大丈夫。ただ、今を喜んで生きよう。わがこととして。・浄土真宗の葬儀は、亡くなった方を弔う儀式ではなくて、また別れを悲しむセレモニーでもなく、本当は残されたものが<おおきないのち>と出会い直す場なのだ。 ・息子が死んだ。世間一般の言葉で言えば、不幸であり、不条理だ。しかしそのことも込みで、この世界は、全宇宙は、善い。それを忘れてはならない。 ・遊雲さんは「がん」と出会ってからも、「今」を楽しんで受け入れていました。お母さんも、遊雲さんの「がん」と出会って、良い方向に行っても、そうでない状況になっても、あまねく照らされているから、「明るい」と思っていました。 ・遊雲さんはそんなお母さんに「どうしてそんな悲しい顔するの。僕はこの治療(緩和ケア)に感謝している。もっと楽しい話をしよう」と言いました。母さんは今もこの言葉に勇気づけられています。
by nandemokoukisin
| 2017-07-31 09:35
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