噛みきれない想い そのⅥ |
・そういう思考のプロセスを途中で停止させる、そんな麻酔薬のような効果が、冒頭に掲げたスローガンの甘い響き、その言葉の柔らかい感触にはある。
・明治時代の京都の建築資料を調べていて驚いた。この二つの施設の建造にかかわった二人の技師が京都に乗り込んできたとき、彼らはまだ二十代半ばの青年だったのである。
・無意味ということを軽く見すぎているのではないかだろうか。人生においては、意味のないことかもしれないが、それでもだいじなことがいろいろある。
・意味がなくても、役にたたなくても、得にならなくても、それでもしなくてはならないことがある。礼節というのはたぶんそういうもののひとつであろう。
・(イタリアの美術館のカフェの支配人)何もしないことになれていると言おうか、手持ちぶさたなときのスタイルが決まっている。・・・彼は何もしないその姿が美しいのである。憎いくらいに。ひとつ間違ったら、苦笑ものになるくらい、ぎりぎりのところでさまになっているのである。
・立居、物腰、そして身のさばき。イタリア野郎に感じたあの野生の高貴さに堂々と並び立つ、妙なる気品。ひとの仕草にははっとするような閑(しず)けさが漂っていた。
・一方を立てれば他方が立たずといった葛藤の起こっている場所、一つの問題に対して複数の正解が
ありえ、しかもそれらが両立しがたいという矛盾に満ちた場所、そういうところで思考は鍛えられるといってもよい。
・「足るを知る」というふうにじぶんをまとめる、囲うのでなく、「無限なるもの」に向かってじぶんを開くために「足らざる」場所にじぶんを置く・・・・「発展」という言葉はそういうことをあらわすためにこそ使いたいものだ。より多くの満足をめがける「貪り」の地平においてではなく。
・年嵩がましてくるにつれて、ふと道端に落ちた枯れ葉を部屋にもって帰るというようなこともするようになった。
「朱」に魅かれるじぶんがいる。
・いつぞやの新聞に載っていたのだが、1997年に殺人容疑で検挙された年齢層の一位が四十九歳になった。二位が四十七歳、三位が四十六歳、それもほとんどが男性である。そして四位になってはじめて二十代が登場する。
・生きるというのは寂しいものだ。じぶんがいまここにいる理由というのを、ひとは求めないでいられないからだ。・・・じぶんがいまここにいることの意味、じぶんがここにいていい理由を、もっと
も必要としているのは、「してもらう」ことが増える老いのなかでだからだ。
・どうしてもこれだけはしてぉきたぃという気持ちと、ふっと消えることができるならいつでもいいとぃぅ気持ちが、仲よくとぃぅか調子よくというか、これまでずっと同居してきて、だからかたくなに頑張りながら、どうだっていいゃとなげやりになりもする。少年のころもそうだったし、いまもおなじことだ。
たとえ稚拙でもじぶんにしかできないことがあるはずだという想い。これもむかしからある。といいうよりそればかり捜してきたとぃぇる。そして老いさらばえても、死のまぎわにも、やはりおなじようなことを考えるだろうとおもう。
話しあおうという父親に向かって、ひとりの女子高校生がこんなふうにつぶやく。「理解しようとしてくれるのは、もちろんうれしい。だが、理解し合えるはずだという前提に立つと、少しでも理解できないことがあった時に、事態はうまくいかなくなる」。これは村上龍さんの小説のなかの台詞だが、こういう「おとな」を十代のひとに感じることがぁる。
その一方で、亡くなった老父の「青い欲望」には、正直、まいった。成熟ということは歳とは関係ないと、いまにして悟る。
う〜ん、最後の文章は、父親を持て余したかんじですね・・・・