噛み切れない想い 鷲田清一著 |
「他人の想いにふれて、それをじぶんの理解の枠におさめようとしないということ」
・自由を得ることによって、ひとは別の重荷を背負うことになった。人生の形をじぶんて選んだ以上、できあがったその形に責任があるのは、他でもない自分だということになったからである。
この問には、確たる答がないまま、それと向かいあうしかない、というかそれと取り組むことにその問の意味の大半がある。
・家裁の調停員のかたからおもしろい話しを聴いた。双方がそれぞれの言い分をぶつけあったはてに「万策つきた」「もうあきらめた」と観念したとき、話し合いの途がかろうじて開ける。訴えあいのプロセス、議論のプロセスが「尽くされて」はじめて開けてくる途がある、というのだ。
・ここで開けてくるのは、理解の途ではない、「理解できないけど納得はできる」とか「なにも解決はないければ納得はできる」というときの、その納得の途だ。
・納得はもがき苦しんだ後にしか訪れない。・・たがいにとことん言葉をぶつけあい、ののしりあったはてに、相手が自分と同様、土俵から降りずに同じ果てしない時間を共有してくれたそのことにふと思いがおよんだ後にしか、納得は生まれない。そこではともにもがき苦しんだその時間の確認が大きな意味を持つ。
・いまわたしたちにほんとうに必要なのは、そういうねっとりとした密着した関係ではなく、距離をおいてたがい肯定しあう、そういう差異を前提とした関係なのだろう。
・<女>と<男>どころか、固有の名をもった<ひと>だって、じつは演じられる存在なのかもしれない。だから別の人間がそれになりきることもありうる。
そこで冒頭に返って、だから、ある仕事がじぶんに向いているかどうかなど思い悩むのはあまり意味がない。「人格」をあらわすパーソンのラテン語源「ペルソナ」がもとをいえば演劇で使う「仮面」を意味していたことには、なかなかに深い洞察が含まれている。
・「教養」とは、一言でいえば、何がほんとうに大事で、何が場合によってはなくしてもよいものかを見分ける力のことである。
・多くの男性が定年とともにいきなり老いの段階に入ってゆくのに、主に専業主婦である妻たちは子育てが終わって以降の二十年前後を「孤独な時間」として、老いの前に一人で生きなければならない。このずれが家庭の危機の根っこにあるというのだ。
・「女性たちは、危機を仕事やカルチャーセンターに通うなどして多様に乗り切った。現在の中高年女性がいききしているように見えるのは、ライフサイクルの第三期の問題を一人乗り切ろうとするなかで<自分>というテーマに出会ったからに違いないのです。そう考えないと、たとえばニ十年も連れ添った夫婦の離婚が増加している理由が分からない。彼女たちは何を大切にしたくて離婚を決断したのか、ぼくは<自分>だと思う」。
・高齢になったひとたちを眺めていて不可解なことが、もうひとつある。歳がゆけばゆくほどのんびりしていいはずなのに、歳がゆくほどせっかちになる。待つということができなくなる。「あんなに穏やかだったひとが・・・・」ととまどうばかりにアグレッシブになる。
・だから、死を考えるときは、だれかの死とはひとびとのあいだで起こる出来事であるという、そういう地点から考えはじめる必要がある。
・ひとがほんとうに経験できる死というのは、自己の死ではなく、他者の死であると言えそうだ。死の経験というのは、じぶんの思いの宛先としてくれていた他者がなくなるということの経験、そう、喪失の経験なのだ、と。
・ぎりぎりの場面で口をついて出てくるのは、つるつるの表面を滑る言葉ばかり。噛みきれない言葉が聞こえない。聞きたいのはむしろ、(堀江敏幸さんの言葉を借りれば)表面にこげつくような言葉なのに。
・他者からの干渉、他者への依存というのは、たしかに鬱陶しいものである。けれども、だからといってそれはただちに「不自由」を意味するものだろうか。他者への依存(見える、あるいは見えない)なしには、人は生きられないものである。「自立」ということを簡単に口にできるのも、個人の生活の世話、広義のケア・サーヴィスを金銭で買える社会にいるからだ。
・おざなりのデザインというのは、どこかひとを軽くあしらったところがある。「こんなものでいいと思いながら作られたものは、それを手にする人の存在を否定する」のである。
人間は「あなたが大切な存在で、生きている価値がある」というメッセージを探し求めている生きものだ。・・・「手にとった瞬間にモノを通じて自分が大事にされていると感じられる」もの、それがよいデザインだというのだ。
・なにかを変えるには、カタチを変えることが大事だ。「業務改革」というのは、ひとびとがこれまでよかれと思ったきたものを変えることだから、問題の根が深くてなかなか進まない。そういうときに、たとえば机の配置を変える、上司も部下もおたがいを「さん」づけで呼び合う、というふうに、ちょっとカタチを変えるだけで、「改革」が一気に進むことがある。
・職務とは別に「ひと」としてまずなすべきことがあるのにもかかわらず、あえて職務に徹しなければならない、そのいうディレンマがあるからこそ、ひとは職業倫理というものを考えてきたはずである。報道記者も野次馬も、「空気がよめない」のではなく。「倫理」という名の品位を欠いていた。まなざしの欲望だけが暴走していた。
・バラエティ番組だと、笑わす者も笑う者も画面の中にいる。これは番組のつくり方としてはとても下手なやり方だとおもう。
・死の体験のもっとも基本的な形は、じぶんにとってその存在が重要であったいひとに「死なれる」という体験である。そう、受動的な体験。
・関西のひとは待つより先に挑発する、応答をうながす。それが不思議に、被災したひとびとの救いにつながった。
・たこ八郎のなぞめいた言葉が、彼のお墓には刻まれている。「めいわくをかけてくれてありがとう」。
なぜ、「ごめんなさい」でなくて「ありがとう」なのか。このことの意味をじっくり問うことが、ケア論のコアにつながると、わたしは考えている。
いいかえると、他人の想いにふれて、それをじぶんの理解の枠におさめようとしないということ、そのことでひとは、「他者」としての他者の存在に接することができる。
・このように見てくると、理解するとは、合意とか合一といった実質をともなうものでなく、分からないまま身をさらしあうプロセスなのではないかとおもえてくる。
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