小林一三と宝塚 朝日新聞のシリーズです |
こる。20歳で三井銀行に入り、34歳で阪急の前身となる鉄道の開業に携わった。
おりしも日露戦争後の不況のまっただ中。宝塚はひなびた温泉地だった。アイデアマンの小
林は新しい温泉郷をつくる。その余興に、と思いついたのが少女歌劇である。
嗚呼少女歌劇、実業家として立つ私の周囲の同人達から見るなら、何たる馬鹿げた暢気な仕事に没頭する愚かさよと、笑われていることも知らぬではありません」
4千人収容の宝塚大劇場を立て、オペラ出身の演出家岸田辰弥を欧州留学させ、画家岸田劉生の弟の辰弥は本場のレビューを持ち帰る。大人数の歌とダンスの「モン・パリ」は大当たりし、いまの宝塚のステージの原点となる
小林はタカラジェンヌたちに「清く正しく美しく」と、・かんで含めるように教えた。宝塚は家族そろって楽しむ娯楽でなければ。それは品の良さだと考えたのだろう。一面、厳しさもあった。矢継ぎ早に部下に指示するメモは「お墨付き」と恐れられた。