う〜ん、答えになってないではないか!?
でも、対策打てば、解決出来るものではないということも分かった(泣)
しかし、この本が訴えていることが真実とすれば、われわれはなんと無駄なことを真剣に討論しているんだということになる。
俯瞰的に見て、視点を変えることが、大切と知らされた!
<抜き書き>
・地方創生、一億、総活躍など、出生率の低下に歯止めをかけることを目的とする政策が、国民の希望を叶えようとすればするほど、少子化対策としての実効性を鍛えなく期待できなくなる」というパラドックスである。13
・数理社会学者の池周一郎氏がかねてより主張しているように、 「夫婦出生力は社会経済的上諸条件には依存していない」という解釈が妥当であるように思われる。池氏によれば、夫婦出生力の安定は、分子のブラウン運動(ランダムな揺らぎ)にも似て、「夫婦の子供数は他の夫婦の子供数の影響を相互に受けて変化する」という原理に従った、低出生行動(つまり夫婦単位の少子化)の伝播・拡散の帰結とされる。筆者にとっても、この理論的な解釈は、極めて魅力的に見える。74
・筆者自身は、低出生率・人口減少を前提とした公平な社会制度を構築することが、社会正義の観点から必要であり、出生率を高めるという意味での少子化対策を論じることにあまり意味はないと信じる立場である。・・・「結婚したくてもできない」「子供を産みたくても産めない」リアリティーを強調するような少子化対策では、その有効性には限界があると考えている。 81
・つまり、男性の年収が750万になるから、誰もが結婚できるようになるのではなく、女性の間でさらに高い年収の男性(セレブ男性、アラブの富豪?)を獲得しようとする競争が激化するだけではないだろうか。・・・・・むしろ真に問うべきなのは、女性が自分よりも社会的地位(例えば学歴)の高い男性と結婚するというハイパガミーの傾向がどれだけ変化し得るのか、という問題であろう。仮に女性が自分と同等か、自分より下の男性と結婚する傾向が強まるとすれば、男女の平等が達成されるのに伴って、結婚できる蓋然性が上昇していくはずだからである。88
・ハイパーガミーと格差対策と男女平等は、同時に達成することができない関係になっているのである。少子化の最大の要因は未婚化であり、その主原因が若年男性の相対的経済力の低下だとすると、少子化の要因は、男女平等の下でも、ハイパガミーの結果と理解できるとKY氏はいう 格差対策や少子化対策を行おうとすれば、女性の社会進出や男女平等に水を差す。しかし、女性の社会進出・男女平等を貫徹させるならば、少子化もしくは格差拡大を放置することになる。つまり「男女平等・格差対策・少子化対策を並立させようとしても、多くて、2つまでしか得られず、少なくともどれか1つを犠牲にせざるを得ない、というトリレンマがある」ことになる 96
・ここであり得る選択は、「女性が自分より年収の高い男性を選び続けることを容認して、男性を経済的に優位にすることを最大の少子化対策とする」(男女平等の放棄)か、「女性が収入の低い男性を主夫とすることを受け入れるよう責任の男女平等を迫る」(ハイパガミーの放棄)か、少子化の最大要因を放置する(少子化対策の放棄)か、のいずれかになる。96
・ 子育て、年金、医療、介護等への積極的な投資、すなわち「強い社会保障」が国民の内需を掘り起こし、持続的な経済成長が可能になるという立論は可能である。……だが、これが持続的な出生率の上昇につながるかどうかは定かではない。というより、データで見る限り、社会世界的傾向としても、日本国内に限っても、そのような事実を確認することは難しい。110
・どうも日本人は、結婚ということを厳密に考えすぎるように思います。もっと気楽に結婚して、離婚しても良いようにも思います。そうすれば、もう少し子供の数も増えるでしょう。エマヌエル・トッド 130
・ 3つの基本的事実を無視することはできないはずである。
(1) 一人当たりGDPの高い豊かな国は、出生出生率が低い。103
(2) 日本やアジアの大都市圏は、農産村や村落部に比べて出生率が低い50
(3)世帯収入の低い女性の子供数は多い。「貧乏人の子だくさん」105
筆者の見立てでは、戦前を代表する社会学者である。高田保馬の少子化論は、上記の事実を統一的に説明する性能を備えていると考えられる。 136
・ところが、経済的に豊かになればなるほど、人口が増えるかというと、ことは単純ではない。実際には、人間の人口は長期的に安定してきたからである。マルサスの理論をもっとも単純化した形で提示した人口経済学者のグレゴリー・クラークは、次のように定式化する。
1.各社会の出生率は、それを制限する慣習によって決定されるが、物質的生活水準が上昇すれば増大する。
2.各社会の死亡率は、物質的生活水準の上昇にともなって減少する。
3.人口の増加にともない、物質的生活水準は下落する。
物質的生活水準が上昇すると、上昇出生率は高まり、死亡率は減少し、その結果人口は増加する。ここまではわかりやすい。しかし、マルサスの鋭いところはこの先で、人口が増加した結果、一人当たりの生活水準は低下する。そして、物質的所得が、出生率と死亡率が一致する「最低生存費水準の所得」の水準を下回ると、人口は減少に転じ、長期的には最低生存比水準の点で人口が均衡する、というのである。これが「マルサス的均衡の状態」あるいは「マルサスの罠」 と呼ばれる状態である。140
・ したがって、本書冒頭で見てきた、出生率にをめぐる3つの基本的事実に対して、ここでももう一つ、4つ目の事実を付加する必要があるだろう。
(4)歴史的には、豊かな階層の子供数は多い。「小田金持ちのコダックさん」。142 このようにグローバル・ヒストリーが提起する実として、出生率の問題を考えるには、「貧乏人の子だくさん」と「金持ちの子だくさん」を同時に説明できる理論的な仕掛けが必要なのである。146
・筆者は2004年末に「子供が減って、何が悪いか」を出版して以降、しばらく少子化論争の渦中に巻き込まれた。当時、筆者が述べてきた「男女共同参画は少子化を防がない」、「少子化対策を高尚することは、かえって人々のを結婚や出産から遠のかせる」といったことは、社会調査のデータを多少扱った経験のある人間なら、多くの人が気づき得たこと はずのことである。逆に言えば、そのような「気づき」がなぜ世に出ることが少なかったのかということ自体、言説分析の対象にすべき事柄のようにさえ感じられた。147
・歌人でもあった高田は、虫の鳴き声や季節の移り変わり、往来を行き交う人々にも、きめ細やかな観察を怠らない・・・・憚りながらも、筆者も、「いつか高田のように、地べたを這うような虫の視点と、宙空から人間社会を眺めたような鳥の視点を合わせ持つ文章が書けるようになりたい」と願うほどに、高田の才能に心酔するようになったのである。150
・つまり豊かな人が多く、平均所得が高い都市(パリ、ベルリン、ロンドン)ほど出生率が低い世界を、高田は見出した。既に見たように19世紀後半の欧州は「大分岐」以降の世界であり、それぞれの社会におけるどこかの階級/階層を中心に、出生率が低下が始まっていたはずである。しかしそれはなぜ起こったのか。・・・ 高田は物質的福利増進そのものが出生率を減少させるわけではないと高田は考える。
では、西欧諸国における、貧富による出生率の差異は、何に起因するのか。それは大部分、人為的出生制限にあると、高田は見る。そして、出生制限が行われる原因として、「力の欲望」、すなわち「自己の優勝と此優勝の誇示とを欲する欲望」にその答えを求めている。152
・つまり、自己の子供の社会的地位を向上させるために、子供数を減らすというのである。その中心となるのは知識階級であり、彼らは「力の欲望に従いて、一定の生活水準における福利を要求する。此要求に対して現に享有するところの福利の及ばざる事あらば、ここに調節の必要が起こる。此調節は即ち出生の制限となりて現る」。高田によれば、豊かな階級は、さらに高い地位に上る見込みが大きく、現在の地位は力の欲望を満足させる。それゆえ現在の地位を失わずに、さらに向上しようとする欲望が強くなるが、ゆえに、産児制限が行われる。 ところが他方、社会の最上層では、子供をたくさん産んでも、自己の地位は危うくならないので、産児制限は比較的強くないとも述べるのである。153
・「生活標準」(生活期待水準)が一定なら、社会における「福利の増進」(豊かさの増大)は出生率を高めるはずである。しかし「力の欲望」は生活標準に作用し、これを変化させる。そのため、仮に「福利」が増進しても、その速度よりも早く「 生活標準」が高まるならば、「相対的窮乏」の状態となって、出生率は減少する。155
・社会の最上級では、福利が常に生活標準を上回るので、出生制限は起きない(金持ちの子沢山)。逆に、社会の下級によっては、そもそも生活標準が低いので、出生制限は起きない(貧乏人の子沢山)。これに対して上級と中級では、福利の増進以上に生活標準が高まるので、出生制限が行われ、子供の数が減ると言うことになる。これはなかなかスッキリした、筋の通った理論的解釈ではなかろうか。156
・ しかし、この先が凄い。高田は、少子化の処方箋として、利益社会化と生活標準の上昇を押し留め、全国民が貧乏に持続すれば、出生率低下を食い止められるという「国民皆貧論」を提案するのである。160
・もっともそれは、絶対的な生活水準の上昇を否定するものではない。貧困はあくまでも相対的生活標準の問題であり、その根幹にあるのは「上級のものはその欲望を満足せしめんがために、下級生活と自分の生活との隔たりを、ますます大きくならしめようとする。それで、下層の人々の生活が改善せられるほど、自分の生活標準を高める。したがって、いわゆる並の生活の程度も高まると言う、力の欲望がもたらすメカニズムなのである。ここでは、生活標準をめぐる階層感の「追いかけっこ」が生じているのである。160
・ 高田保馬は、このテキストでは盛者必衰、驕れるものは久しからず、貴族はすなわち墳墓なり、売家と唐様で書く、3代目、といった言葉が、随所に使われ、「力あるものは、やがて力あるがゆえに衰え、力なきものは、力なきがゆえに栄える」、「一の国家、一つの 民族の興隆は、やがてそれ自体の中に中に衰亡への萌芽を蔵する」と述べられるようになる。高田は、この時点で「社会の進みに於いて、遅れたるものが遅れたるが故に勝つ」と言う境地に到達していたように見える。 163
・第一に、生活標準と豊かさの関係に基づいて、階級別の出生力の差を説明する議論は、 (1)豊かな国は出生率が低い、(2)都市は酸素や村落部に比べて出生率が低い、(3)世帯収入の低い女性の子供数は多い、(貧乏人の子だくさん)、(4) 歴史的には、豊かな階層の子供数は多い(金持ちの子だくさん)と言う、出生率をめぐって、歴史的かつ現代でも確認できる基本的な事実群を、理論的にすっきり説明する性能を備えている。(1)から(4)の出生率に関する基本的事実を統一的に説明する理論が、他に存在しない以上、高田少子化論の優位性・優秀性は明らかであろう。164
・ 第二に、単純な物質的な豊かさではなく、「力の欲望」が増進させる生活標準(生活期待水準)の高まりこそが、少子化につながるという社会学的ロジックであった。・・・・もっとも、いったん高めた期待水準は、容易には下がらないというのは、社会福祉政策や少子化の少子化を論ずる論者がこれまで指摘してきたことである。たとえば、社会学者の上野千鶴子氏が介護の文脈で行った、「個室の経験をした身体は、もとのように雑魚寝文化には戻れない」という指摘は卓抜なものであったし、少子化の文脈でも、既に山田昌弘氏が、結婚生活や子育てに対する期待水準の上昇がバサライト・シングルを生み出す主要因であることを正しく指摘している。166
・要するに、現在の少子化対策は、結婚や出産や子育てに対する期待水準を高めるものしか許容されないし、そうである限り、実効性を確保する事は難しい。逆説ながら、それゆえにこそ「子供が減って何が悪いか」という叫びが必要になるのだ。167
・少子化を受け入れ、それでも社会が回っていくような仕組みを考えなければならない。169
・「男女共同参画・ワークライフバランス・男性の育児参加・雇用政策・地方創生が充実すれば、子供が増える」というのは、為政者にとっても国民にとっても耳当たりの良い、しかし 少子化のに歯止めをかけるという観点からは、実効性のないスローガンである。こうした「都合の良い虚偽」を捨てて、出生率をめぐる「不都合な真実」に目を向けなければならない。170
・ これは端的に言って、大都市や拠点都市よりも、小規模市町村の方が子供を産み育てやすいという事実を示している。増田レポートや地方創生は、こうした地域を「消滅」させても構わないという「選択と集中」の立場を取るので、全体としての出生率向上にはかえって逆効果となる懸念がある。178
・ 2つの解決策を検証する。
(α)、結婚・出産・育児に対する期待水準の上昇を上回る程度・速度で生活水準を高めるか、(β)生活期待水準を高めずに、生活水準を高めていく、の2つしかないことになる。 前者のαの路線は、理論的には可能だが、低成長を前提とせざるを得ない現代の日本では難しいし、現場の少子化対策は不可避的に生活期待水準を高めてしまうので、画餅に終わる。だとすれば、βの路線 すなわち生活期待水準を高めずに、結婚・出産、育児にまつわる生活水準を高めるしかないのだが、現代の日本ではこれがなんとも難しいのだ。185
・ 最低限の応急措置とは?、第一に、現在の人口減少を、「国家存亡の危機」だとか、少子化対策の「最後のチャンス」などと不必要に煽らないことである。第二に、少子化対策を、政治家や官僚の手柄や政争の具にしないことである。 189
・山田昌弘氏は、少子化は階級文化しつつある社会の中で、中流生活からの転落という階級加工移動を回避するために生じるという仮説を提示している。実際には、中流生活からの「転落」ではなく、中流や上流社会への「上昇」を望むからこそ、少子化は進展するので、山田氏の説明では「金持ちの子だくさん」と「貧乏人の子だくさん」という現実を完全には説明できない。 186
・少子化対策を奏功させたいのであれば、居丈高にならず、悲観も楽観もせず、静謐に、誰もが等しく尊重される世界の中で、人々が生きられる世界を追求するべきなのだ。選択の自由が保障され、経済の持続的な成長が確保され、誰に対しても公平な制度を準備し、誰もが等しく幸せに生きられる社会を作り上げることの方が、はるかに優先度の高い政策課題である。 191
・かつてアナウンサーの小林麻耶がメインキャスターを務めた番組が一年で終了せざるをえなかったことをさんま師匠に嘆いたとき、彼は、「一年ももって良かったじゃないか、すごいことだ」と述べたという。一年もたない番組などいくらでもある。、生きているだけで丸儲けなのだ。という、さんま師匠の人生哲学は、小林麻耶を救っただけでなく、これからの日本社会に必要な「心の習慣」というべきものでは なかろうか。194本を読むの減りましたね・・・・
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