この本のおかげさまで、久しぶりに忘れていた道元さんに、また再会することが出来ました。しかしながら、何回読んでも難解で、ほとんど理解できてないことが残念です。それでは、なぜ、読むのだろうと不思議なのですが、語調が良いというのかリズムがあると言うのか、分からないながらも魅力があるような気がします。
著者の中野孝次は、文学として読んでいると書いています。この中野 孝次さんにしても道元の「正法眼蔵」難しいと書いています。60歳の頃から(多分もっと前から読んでいるとおもうのですが・・)15年ぐらい読んでも、まだまだ理解できない所があると言うのですから、私など押してしるべしです。
自分は、今から12年ぐらい前にも道元を齧ったのですが、よく分からずにそのままになってしまい、それでは徒然草でも、これからは少し研究してみようかと思ったのに・・・・、この本を読んだおかげで、また方向が道元に戻ってきてしまいました。
<抜書>
・主眼は「今ココニ」生きるわたしの確認にある。
・何ものにもとらわれない思考の輝きに圧倒され、酔い、魅了され、大きなよろこびを憶えた。この思想は人間を固定から解放すると思った。
・一つは日本が失った型の文化の復活ということだった。一つは道元の時間に関する考え方の自由を学ぶことだった。人間の存在の根源を失った現代日本人を、もう一度生きるよろこびへ導くものが、この「正法眼蔵」にあると、わたしは読むたびに思った。もう一つは、空間についての道元のまったく思いもよらぬとらえ方である。最後の一つは、自己とか心とかについての考え方である。自分は自分であって、しかも自分をこえた存在に支えられていると考えるくらい、心を解き放つものはない。さまざまな情報についてはなるほど昔の人より詳しいかもしれないが、こといかに生きるという大問題については、つねに古人に劣る。
・知識の多さは必ずしもただちに幸福への道ではないのである。
・心の深い安心は物質的欲望から自由にならねば得られない・・・心の充実を得るには、それを得るための努力、修行が不可欠だったのである。まして心の豊かさという目に見えない宝は、それを得るためにさまざまな努力なしには得られないのだ。(このあたりが清貧の思想の原型なのでしょうか?)
・死を正しく見ない社会では生の姿もあいまいになる。死をしっかり見据えてはじめて生が生となる、と道元は言っているように思われた。
・修行なくして人間にはなれないのだ。
と著者は結んでおります。今に生きる我々が心の安定を豊かさを持つには相当な努力が必要ということのようです、楽しては得られないものそれが心の豊かさ。