ダライ・ラマとの対話 目覚めよ仏教 上田紀行著 |
いまこそ、仏教が行き場のない心の不安に応える時ではないのか!?
葬式仏教と揶揄され、だれも期待しなくなった日本仏教を改革すべく、活発な批評活動を行なってきた著者が、仏教が世界に果すべき役割についてチベット仏教の巨頭ダライ・ラマと激しく、かつ徹底的に論じ合った。
悟りを得たにもかかわらず、自らの成仏より衆生の救済を目指したブッダの果てしない「思いやり」=利他心こそ、仏教が世界を救う大きな力の源泉となるはずだ。
すべての現代人のための仏教復興宣言! NHKブックス
ダライ わたしはヨーロッパ諸国のような社会民主主義こそが正しい方向なのでないかと考えています。極端な資本主義でもなく、極端な社会主義でもない。極端な資本主義でもなく極端な社会主義でもない。個人がお金を儲けて利益を得る自由があるという意味では資本主義的ですが、それと同時に社会保障、社会福祉に関するケアも十分にあるというような社会体制です。
上田 慈悲と思いやりに満ちた利他的な社会を目指していくということは法王が常々おっしゃっていることでもあるのですが、私も「利他的社会の建設」ということが21世紀の人類社会の大きな目標になるのではないかと考えています。
ダライ 慈悲ある社会をつくる、そして慈悲ある人間性を築いていくということは、私自身の人生における主な使命、目的となっています。なぜ慈悲ある社会をつくっていかなければいけないかといいますと、人間は基本的には社会的な動物であり、社会生活を営む生きものであるからです。
ダライ なるほどの億万長者であっても、その人が孤独感、寂しさ悲しさといった精神的な苦しみに苛まれているような状態において、お金はその人の苦しみをなくす助けにはなりません。
そこで、私たちは人間として持ってる基本的な価値つまり他者に対する愛情や思いやりがいかに大切であるかということを理解することができます。愛と、思いやりは私たちの抱えている精神的な苦しみに対してお金よりもずっと効果的であり、はるかに大きな影響力を発揮するのです。
本当に深刻な問題が生じ精神苦に苛まれると、それまでのお金に依存していた考え方が間違っていたことに私たちは気づきます。お金の力によって精神的な幸せや幸福を得ることができないということがここに至って初めてわかるのです。
ダライ 第一のタイプの怒りの心は慈悲の心から生じているものです。つまり、そういった問題に心から関心を寄せて、なんとか社会の不正を正していきたいという気持ちから生じる怒りの心は有益な怒りです。この怒りは持つべき怒りなのです。・・・そのような怒りの持つよきエネルギーを、社会の不正を正すことに使うことは正しいことだと思います。
ダライ たとえば、中国が人権を侵害し、拷問を続けているといったような、ネガティブな行為が続いている場合、そういった間違った行いが存続しているかぎり、それをやめさようという怒りの気持ちは最後まで維持されるべきなのです。
ダライ 自分の師から何らかの教えを受けるとき、それを単なる知識的なレベルのみのとどめるのではなくて、実際にそれを自分の心の中に取り入れて、自分の心の流れを鎮めていくことに使わなくてはいけません。
上田 日本仏教というのは、慈悲の実践を失ってしまっているのではないか。菩薩を目指していくという大乗仏教の根幹の部分から離れてしまっているのではないか、という印象を私は強く受けます。
ダライ 持つべき競争心というのは、私はなんとしてもこれを成し遂げるぞというような、何かよい目標に向かって、自分の心のなかに強い決意の心を持つこと、そして、ほかの人の持っているすぐれた性質をみて、それと同じものを自分も得よう、というような意味でもつ競争心であって、それはポジティブな、よき競争となります。
ダライ つまりすべての物事は、「自性」--それ自体になにかの起源がある--のでなく、原因があって生じているものである。それは言い換えればすべての物事が相互依存的であるということであり、そのことを指して、「縁起」という。つまり「空性」とは「何もない」ということではなく。すべてのものが縁起のなかにあるということを意味している。そのように「空」とは「自性が空であること」つまり物事がそれ自体で存在しているのではなく、相互依存しているということを指している。そして仏教においては、その「空性の理解」と「慈悲の実践」という行動がともに重要なのだ、というお話でした。