熱心なほど、教育に失敗する |
「何もしないこと。弘子さんたちは片親で、お母さんが家族の生活のために1日中ミシンを踏み続けたのです。その忙しさから、ご飯の時はイワシを焼いたらそれだけ。姉妹で喧嘩をし始めて、仲介はしない。弘子さんたちがどうやって大きくなったかを、お母さんは思い出せなかったそうですよ」
この話を聞いて僕が感じたのは、小篠さんのお母さんはもちろん育児や教育を放棄したのではなく、子育てということを特別に意識していなかったことだけなのだと。そして小篠さんたち子供たちは、お母さんの生き方や、家族と一緒に積み上げてきた経験を通じて自ら育ったのです。
学校の由来はまさにこの親の限界を打破するための仕組みです。古代中国ではこの親の主観的思い込みによる弊害を避けるために、信頼のできる友人同士が子供を交換して教育しました。これが学校の始まりだと言われています。
教育は、結果論だと私は思ってます、結果が良くなかったら、失敗したということです。
当然ですが、だから、いろいろな方法があってしかるべき、コシノ家の例も良い例です。
一番良いのは、親が真剣になって努力している姿を傍から見れるのが一番良いのでしょうが・・
サラリーマンでは、難しいですからね!