富岡多恵子さんから、俳句の本のことを思い出しました。「俳句的生活」 |
この手の本を自分でも読むとは思ってなかったのですが・・・新聞の書評で見て、書店で手にとったら、自分の興味を引く話題があったので、買ってみました。
それは、庵に関するものです。しかし、意外にも英国の建築家の住んでいる家のことです。無駄を排して、シンプルな家、写真がないので不明ですが、そんな家に住んでみたいと思わせます。柵の外には樹木が茂り、森の中の隠れ家の風情がある。
冷し酒この夕空を惜しむべく 櫂(著者)
庵への憬れは今も俳句に中に絶えることなく息づいている。
著者は、高校時代に、「俳句がカッコいい」と思ってから、その意欲を継続させて、やがて新聞社に入社するも、結局辞表を提出して今は、俳人になった人です。
読んでみると、他にも、安藤さんの建築、焼酎の百年の孤独、等々興味を引く話題に引き込まれます。
「捨てる」の話題のところも面白かったですね、著者の家に長年繁殖していた本を引越しを契機に売るのですが、そのときの著者の句が、
・五千冊売って涼しき書斎かなです。
・一々の小さな塵のなかに、おもい測ることのできない御仏がいまし、衆生のこころに痛がってあらわれ、ついにはすべての国土海に充満しておられる。
仏教は物にこだわるなと教える。仏像は自分自身が物として運命を背負っていることをよく知っていて、やがていつかは自分自身もしょうめつするという大いなる悲しみと喜びのうちにたたずんでいる。
大寒の埃のごとく人死ぬる 高浜虚子
人が死ぬと無数の塵となってあまねく宇宙に散らばる。
・人の世にあふれる争いや悲しみを笑いへと軽々と転じていくことこそが「かるみ」だった。芭蕉の死から三百年後、病苦にあえぐ子規は「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で居ることであった」と書いた。子規を支えたこの「平気で居る事」という悟りは実は晩年の芭蕉が唱えた「かるみ」のことだった。
肝心の俳句のところで一番興味を覚えたのは、「切る」というところです。切れと言うのは、切れ字があるかないかにかかわらず、この切れが俳句を際立たせるものになるのです。
その例に挙げられているのが、
白梅のあと紅梅の深空(みそら)あり
著者は、俳句と料理が似ていると、「この点俳句と料理は驚くほど似ている。俳句は切れが命であり、言葉を切る文芸であると言って、・・・・料理人が鯛を切り蕪を切るのと同じように言葉を生かすために切る。」と評しています。
・その人はいずれ死を迎えるとこ壷と分かれなくてはならないだろうし、物は決して人のものとなることがない。何であれ死後に物を遺すのはあまりいいことではない。
灰汁桶の雫やみけりきりぎりす 凡兆
・長く生きれば生きるほど辛酸の嵩は増す。罠にも似た人生のを中途で見切らずに最後まで見届ける。これが滑稽の精神であり、これを芭蕉は「かるみ」にまで高め、子規は「平気」といいかえた。自殺とは俳句の対極にある。