「良寛に生きて死す」良寛さんの五つメッセージ 中野孝次さんの著作より |
現代人と正反対の生き方を通した良寛
豊かになって大事なものを失ったわれわれと反対の側になったモデルとして。
良寛は、もちろん自分からは、皆さんこうしなさいよ、なんてことは一切いわない人でした。
命令もしないし、説教もしないし、何もしない人でした。
私が良寛の生涯を通して書いた詩や歌を読み解くと、良寛はこんなふうなことをいっているんだと思うのです。
第一は「物欲を捨てよ」ということです。
単に「捨てる」のは何のためかということですが、・・・・人間の心にある神性、それを生かさなければならない。それが幸福になるもとであると。それを磨くのに、物欲というのが妨げになる。
物欲が神性を隠してしまい見えなくしてしまう。だから神性が輝かなくなり、互いに争ったり、戦争をし始める。そういう心の世界になってしまう。そうならないため物欲を捨てる。物欲を捨てるというのは、自分の中の仏性、あるいは神性を輝かせるためだ、というのが、良寛の考え方だと私は思うのです。
良寛の教えの二番目は、「今の為に生きよ」ということ。
この「今の為に生きよ」うということは、「明日ありと思うな」ということです。
それから三番目には、今のことと一緒になりますが、「絶えずゼロの状態に身を置く訓練をせよ」ということ。
プラスのままに置いてはいけない、ゼロに置く。
ゼロの状態におくから、ちょっとしたプラスがありがたい。何か食べ物を恵まれたとか、長い冬が去って春が来るとか、そういうちょっとしたプラスが喜びになる。
四番目は、「身を『閑』の中に置け」、なにもしない状態におかなくてはいけない。
人間にはもうひとつ、自分の中にある自然の部分がある。それは心というもので、自分になるためにその心の声を聞く必要があるんです。それを聞かない人は自分になれない。だから、「身を閑に置け」なんです。
最後の五番目は、先ほどの「内なる声を聞け」というのと同じ意味ですが、「自分が考えて正しいように生きよ」。世間並みに生きるな、といいたい。みんなと同じことをしなければ排除されるような空気が日本全体に満ち充ちていますが、そういうんじゃダメなんです。良寛は、ひたすら、ただ自分という人間のままで生きた人だったのです。
暮らしは低く、思いは高く 北島 東郷氏
東洋は逆に主観と客観の差を無くしていく、そして大本の一つ、「一(いち)」というところもに行く。老子もそうですし、それから良寛もそうです。「一」というのははつまり、自分の世界であってしかも宇宙とひとつになったところ、鳥もみんなが一つ命として生きているところです。それを大美人事にしていく。それを知るのは頭(マインド)の働きじゃなくて、ハート(心)の働きによるのだと。
「足る知る」ということはね、物ならば「今あるもので満足する」ということですね。ところが競争心というものが人間にあるから、隣のやつが良いものを持っていれば、こっちはもっと良い物も持ちたいという欲望がうごめく。
時間の観念といいますけどね、もっと率直に言いますと、今日、今このようにして皆さんがいて、われわれがここにいるんですけれども、これが「今ココニ」ですよ。これが人生の全部そのものということです。
北島:作家で歌人の上田三四二さんが「今ここに我あり」と言っていますね。医者でもあった彼は、大きな病気の後で、いつまたやられるかもしれない、といった不安を抱いて生きていました。何とかして死の恐怖から逃れたい、ということもあったのですね。148
鳥と自分が一体になって、そして春を迎える。その楽しみを「むらぎもの心楽しも春の日に鳥のむらがり遊ぶを見れば」と歌っている。春っていうのは宇宙です。その中で鳥と通じて一緒に心を楽しむ。鳥が歌っているのは、自分が歌ってることですね。
生涯慵立身 生涯身を立つるに慵 (ものう)く
誰問迷悟跡 誰か問はん迷語の跡
夜雨草庵裡 夜雨 草庵の裡
*等閑=ものごとをいい加減に見過ごすこと。なおざり。
・自分は生涯、人と争って先に出ようというようなことは全然しなかった。「身を立つるに懶く」というのは、つまり出世しようとか、人と競争して勝とうとか、そういうような気持ちは全然無かった。すべて、「天心に任す」と、天が自分にあたえたもの、運命がもたらすものに任してしまう。何が起こっても、それを受け取る。
・有名になるとか、利益を得るとか、そういうようなことも自分には何も関係ない。ただ自分を「夜雨草庵の裡」、しとしとと夜の雨が降っている草庵の中にいて、「双脚」、二本の足を長々と「等閑に伸ばす」、それが自分の幸福だというんですよ。だから、物は三升の米があれば十分、薪はこれだけあれば十分。それから、ただ、こういうふうにして、この時を生きている。雨の音を聞き、そしてその中で昼間の托鉢で疲れた体を長々と伸ばして、これが自分の幸福だと言っている。156
どうしてか、この投稿を見て頂いた方が、いらして、見直してみたら、中身がひどい(泣)申し訳ありません・・・・・
少し、修正しています。
2006年の投稿なので、まだ在職中の時ですね、忙しそうにしていたからな・・・・・この、文章の誤字脱字は、ひどいものですが、
まだMacの音声入力はないころで、別のソフトをつかっていたのかな?
同年11月には、ほぼ同内容で、こんな記述が見つかりました。
本を読んだものをソフトで活字化しているのだ、変なところがあります
それにしても、いくら「途中」としていても、ひどかったですね、恥ずかしいです。
等閑も分かっていなかったな、同じ様にと思ってた(恥)
刺激を与えてくれてた、皆さん、ありがとうございました!!
追記 2020/05/21
・老年になったら、なおさらのことを思いやりというのかな、許すというのかな、咎めないという心が必要だと思います。俺が良寛から学ぶべきことではないでしょうか。
・アッシジの聖フランチェスコと良寛とは、ずいぶんよく似ていると思いますよ。アッシジのフランチェスコも、持たず、所有せずということを徹底してやった。持たないものは神に近しいということで、実際に神とか仏とかいうものを信じて、そして神性・仏性というものが自分の中にもあると信じれば、持たないものは一番上に近くなるというのは、賢者が皆そう考えている。174。
・エックハルトという人が言っていますが、「自分が一切を捨てる。物欲を捨てる。神を欲しいと思う心さえ捨てる。すべてを捨てて心が空になれば、そこにおのずから神が入ってきている」と。その考えはね、道元にもあるし、良寛にもある。「空にすれば、そこに神が入ってくる」、みな同じです。176
・知識さえ持つなということは、法然上人も言っている。176
・良寛とフランチェスコ(考古堂)
北嶋:ソローは「森の生活」という本の中で、「私の人生でないものを生きたくなかった。生きるということはそれほど貴いものだ」と森の生活の意味付けに触れ、「われわれの人生は瑣末なことによって無駄に費やされている。単純化Simplifyせよ、単純化Simplifyせよ」と説いています。