「ひとり」の哲学 山折哲雄著 |
なぜ、親鸞、道元、日蓮がひとりなのか、
そして、親鸞は、もっとよく勉強する必要はあるとおもいました。
<帯より>
孤独でなぜ悪い、親鸞、道元
日蓮などに学ぶ「ひとりの覚悟」とは
窒息しそうな「個」の壁を破り、広々とした「ひとり」の世界に飛び出してこないか、そんな思いをこめて私はこの本を書いた。
<抜き書き>
・ところがその間に気がついてみると、ひとりで生きると言う意識が、我々の間からしだいに消え失せていったようだ。ひとりで事を処する、と言う心構えのようなものが希薄になっていた。
・人口減少時代がやってくれば、ひとりで生きる。ひとりで生きるほかない領域が、空間的にも時間的にも自然に広がってきているはずなのに、そのことを誰も感じていないようだ。ひとりで生きる挑戦の時がやってきている、とはいぜんとして誰の念頭にも浮かばないようだ。それでは、その「ひとり」の原像をわれわれは一体どこに求めたら良いのだろうか。
・ ひとりと いう大和言葉はすでに「万葉集」や「源氏物語」以来千年の歴史を持っている。その中で時代を転換させるほどの画期的な「ひとり」の意味を発見したのは、これから述べるように親鸞であると私は考えてきた。
・阿弥陀如来は、確かに万人救済の誓いをお立てになった。けれどもそれを他人ごととして受け止めるのではない、自分のこととして考え直す時、その誓いが初めて自分ひとりのために向けられたものだと分かった、親鸞はそう言っている。自分というひとりは万人の中のひとりである。いわば、そのひとりは万人の中にはに紛れ込んでいる。しかしそのひとりの自分が、ふと絶対の救済仏に向き合った時、阿弥陀如来のまなざしが自分ひとりだけに向けられていることに気づく。気づいて戦慄する。
・十三世紀の 親鸞を筆頭に、道元、日蓮と続くひとりの哲学の系譜が独自の光を放っているからである。そしてその前後の時期に登場する法然と一遍の存在の重要性に着目しないわけにはいかなかったからだ。それが私の直感的な結論だった。
・阿弥陀如来の誓いは、
大海原に、わが身を浄土に渡してくれる大船
落日の輝きこそ、
その如来が放つ救済の光 教行信証の冒頭
・泣いても笑っても、もう俗人でもなければ坊主でもない、そう言っている。その後に言葉としては残してはいないけれども、ただの歌詠さ、どういう自嘲めいた吐息も漏らしていたかもしれない。漢詩のころもを着けようと、和歌の形を借りようと変わりはないさ、そんな軽みがかれのからだにしみついている。草ぼうぼうの庵に逼塞するひとり住まいが、そんな風を吹かせている。
・坊主の格好はしているけれども、実は煩悩まみれ俗人を装いながら、せめて髪だけは剃っている。これなども良寛風に言えば芭蕉における「非俗非沙門」の告白といっていいだろう。
・ ひとりの風にふかれて歩み去る「非僧非俗」の行き着くさきが、そのようなこの世の岸辺であったことは、やはり記憶にとどめておいていいのではないだろうか。
・ー良寛よ、あなたはここまで自分を追い詰めなければ、安心できなかったのか。良寛は乞食の食べ残した物を食った。腐りかけた水を飲んだ。それでも彼の精神の飢えは収まらなかった。五合庵はその饑渇の幻のように私の前に立っていた。私は思わず涙を流した。(露草の青より)
・良寛は、自己を意識の極限まで追い詰めていた近代人だったと、私も思わないわけにはいかない。けれども良寛は同時に、意識の極限まで自己を追い詰めていた先に、五合庵の生活という、いってみれば中世の岩盤の上に立つ自己をわがものにしようとしていた。中世人の生活基盤を手放そうなどとは考えてもいなかったのではないだろうか。
・良寛は先にもいったように、禅門に入って僧衣をまとい、出家僧の姿になったが、村の生活の中で村人を相手に暮らしを立てているときは、「非僧非俗」の親鸞スタイルに憧れていたようだ。聖の伝統と言っていい。僧か俗かにこだわらない。出家が在家かに引きずられない、自在な「ひとり」がそこにいる。
・そしておそらく、このような無の哲学を原理的に考えようとした最初の人間が、わが国では道元だった。彼はたった一人で座り、座り続けて、そこそのことを極めようとしていたように私は思う。道元こそ、まさに無の哲学の創始者と呼ぶのにふさわしい人間だった。
・仏道を学習するとは、おのれ自身を学習することだ。おのれ自身を学習するとは、おのれ自身のことをすっぱり忘れ去ることだ。おのれ自身を忘れ去ることができれば、眼前の全世界が、ありのままの姿で立ちあらわれてくる。道元はそう言い切っている。
・禅の本来の価値観は、たんなる空無の信仰や哲学の中にあったのではないのかもしれない。それは人間の苦しみを解除する治癒の中の教えであって、いわゆる宗教や哲学とは別の次元に属する実践的な生き方そのものではないかとも考えられる。それがもしかすると「個人主義」から「ひとり」の哲学に誘導する機縁になるのかもしれない。
・一遍こそ、「知恵第一の法然房」が扉を開いた「軸の時代」を、最後最後にそれを絞り上げるような姿で生きた人間だったような気がしてならない。彼は、「軸の思想」の純粋な果実を後世に伝えるためにこそ生きた最終ランナーのような証人だったのではないか。
・しかしよくよく考えれば、そもそも人生の初めから、そのような歌の世界、詩の宇宙をめざしていたのが一遍だったことに気づく。彼は天に向かって歌うように念仏を唱え、地に向かって念仏の声を上げて、その中に生きようとした。気がついたとき、彼はあらゆるものを捨てていた。頭の中につめこまれていたもの、体の中に染みついていたものを捨て始めていた。法然や親鸞が葛藤し、格闘していたものを、惜しげもなく捨てていた。
・捨てることから再出発しようとしたのではない。そもそも捨てることから出発していた。捨てることで、人間の中に、社会の中に入っていこうとしていたのだ。
・橋をかけ井戸を掘り、ときに死者の遺体を葬って供養するのが仕事だった。民間を歩く市聖、人々の魂を看取る阿弥陀聖として尊ばれたのである。風雪に耐えて生きた空也が、そこにいる。その遊行漂泊する空也の体を、年輪を経た獣皮が柔らかく押し包んでいる。上人にとって獣皮へのの同化こそが、山川草木への同化の第一歩だったのだろう。空也が空也聖になる道程を、そのどうかへの意志がそれとなく表している。
・空也上人像の、法悦のまなざしを宙に向けた、恍惚の表情とはまるで違う。平安時代の浄土憧憬と、室町乱世の浄土希求の差か‥。そうは言うものの、腰から脚部への鍛え抜かれた肉体の線は、空也像のカモシカのようにしなやかな体の動きと、そっくりそのままだ。とりわけ法衣の裾からぬっと突き出た両脚の、筋肉が盛り上がる骨っぽい生々しさは、大地をふみしめる鋼のような両足先の太い十本の指としっかりつながっている。
・「生ぜしもひとりなり、死するもひとり。されば人と共に住するともひとりなり、そひはつべき人なき故なり」人間は生まれたのもひとり、死ぬのもひとり。人と一緒に住んでいても実は一人なのだ、最後まで一緒にいてくれる人はいないのだから。
・漱石や啄木の時代が、すでに「ひとり」の哲学を喪失していく危機にさらされていたことがわかるだろう。
・思い返すば、戦後のわれわれは個、個の自立というコトバをよく口にしていた。個性、個性の尊重と異口同音に話題にしてきた。だが、その結果、どういうことになったか。右見ても左を見ても自己愛の子がまんえんし、孤独の個の暴走する姿が巷にあふれるようになっていた。
・どうしたらいいのか。解答はどう考えても1つしか見つからない、つまりこの我々の世界で発生する事は、すべて「想定内」と受け止めるほかないと言うことだ。これこそが、この災害列島に生き続けてきた日本人が身に付けてきた覚悟であり、人生の知恵だったと思う。
・あらためて思うのであるが、今われわれは「挽歌」の季節を迎えているのかもしれない。挽歌とは、もともと死者というよりも、死者の魂に向かって語りかける心の叫びであった。それが古代万葉人の作法であり、先祖たちの日常における暮らしのモラルだった。それを今日の我々の社会は「終活」といった軽薄な言葉で呼ぶようになっしまった。
・しかしながらその「ひとり」で生き、そして死んでいく「こころ」の居場所が今や至るところで揺らぎ始めている。「こころ」の居場所が揺れていれば、「ひとり」という存在の座標が定まるはずはないだろう。
・ひとりで立つのは、垂直に広がる天地の軸を背景に、その中心に己の魂を刻み込んで生きるのである。
・暗くなれば、酒が欠かせない。チビリチビリ、飲む。ゆっくり、ひたすら飲む。ほとんど中毒である。アルコール依存症なのだろう。ただ、量はいかない。せいぜい一合から二合・・・。それを、チビリチビリやる。・・・・
夜九時を過ぎる頃になれば、ひとり酒も終焉を迎える。深沈とした夜の闇が、体の中に溶け込んでくる。さぁ、これから死ぬか、と掛け声をかけ、そのままベッドに転がりこむ。