「自産自消」被災地の願い 広がる再生エネルギー 上田俊英 (編集委員) |
1991年のきょう2月9日、わたしは出張先の米国のホテルで寝ていたところを、日本の上司からの電話で起こされた。
「すぐに帰ってきて」
関西電力美浜原発2号機(福井県)で事故があり、緊急炉心冷却装置が働いたという。事故のときに原子炉の空だきを防ぐ装置で、日本で作動したのは初めてだった。この事故をきっかけに、わたしは原子力の取材に本格的にかかわるようになった。
「一次冷却水大量漏れ」「美浜原発緊急冷却装置が作動」「蒸気発生器 細管破裂か」「国内最大の事故」ー。翌10日付の朝日新聞朝刊(東京本社発行の最終版)には、1面トップに大きな見出しが並ぶ。
原子炉から熱を取り出す「蒸気発生器」という機器の細い金属雪が破断し、放射性物質を含んだ大量の一次冷却水が原子炉から発電タービン側へと流入。230億ベクトルの放射性物質が外部に放出された。東京電力福島第一原発事故と比べれば微々たる量だが、当時は国内最大の事故だった。
いま、この事故を振り返り、思う。
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日本の原発は、戦後の高度経済成長を支える形で建設された。「大量生産、大量消費」があこがれだった時代は、たしかにあった。原発は、そんな社会が求める大量の電気をつくる任を負っているようだった。
そう思うのは、わたしが1960年生まれだからかもしれない。この年の12月、池田勇人内閣は「国民所得倍増計画」を閣議決定—のちに東電の10基の原発が立ち並ぶ福島県は同じ月、佐藤善一郎知事(当時)が県議会で「(原発の)立地条件を検討している」と述べ、誘致に乗り出した。
そして、原発は急増。政府は87年にまとめた「長期計画」で、2030年の設備容量(発電能力)の見通しについて「1億㌔ワットを超え」とまでうたった。100万㌔ワット級原発100基分の規模だ。
しかし、現実の日本は美浜2号機事故があった91年2月を境に、急激な景気後退期に入る。「バプル崩壊」である。
以後、日本のエネルギー消費の伸びは鈍化。省エネの進展もあり、ここ数年は逆に減り続け、2015年度のエネルギー消費(速報値)は美浜2号機事故があった90年度さえ下回った。「大量生産、大量消費」の時代は、すでに遠い過去にかすむ。
この間、日本の原子力は5年をおかず大事故を繰り返した。95年の高速増殖原型炉もんじゅ(福井県)のナトリウム漏れに始まり、99年の核燃料加工会社ジェー・シー・オー東海事業所(茨城県)の臨界事故では社員2人が死亡。2004年の美浜3号機の配管破裂は作業員5人の命を奪った。
07年には新潟県中越沖地震にともない、東電柏崎刈羽原発3号機で変圧器の火災が発生。そして11年3月11日、福島第一原発が人類史に残る惨禍を引き起こす。
あまりに巨大なエネルギー源を、わたしたちは現実に、もてあましている。
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2月1日、福島市で「ふくしま新電力」(福島市)の電気の供給開始を記念する式典があった。地元でプロパンガスの供給販売などを手がけるアポロガス(同)が、電力小売りに参入しようと設立した。
社長の相良元章さん(50)は言う。「中小企業は地域密着でなければいけない。原発事故で、その密着すべき地域がなくなる恐怖を感じた。エネルギーの『自産自消』を、ふるさと福島で実現したい」
目指すのは、エネルギーの「地産地消」ではない。家庭や企業がみずからエネルギーをつくり、消費し、あまった分は蓄え、足りないところに送る。そのネットワークの核となるのが新電力の役割だという。
そんな「自産自消」の願いは、被災地に確実に広がる。福島県は原発事故後、一般住宅の太陽光発電パネル設置への補助を始めた。その効果もあり、設置はすでに4万件を超えた。県内の戸建て住宅の数は50万ほど。その1割近くにあたる規模だ。
県は40年までに県内のエネルギー需要の100%分を、再生可能エネルギーでつくることを目指す。道のりは速いが、2年後の18年度末には30%に達する見通しだ。
もういい加減に、脱原発を宣言して欲しい!
安全とか、安全じゃないとかの問題でなく、役割の終わった原発に別れを告げ、新しい再生エネルギーの転化スべきだと思う。そうすれば、新しい技術も雇用も付いてくるのではないか!