死ぬ力 鷲田小弥太著 |
・人生は短い、死は常にまぢかにある。
・老いも、死も、避けられない。だからこそ、どう老いるどう死ぬのか、が誰にとっても重要になる。いま・この時を、どう生きるかが、抜き差しならなくなる。朝に道を知って、夕べに死んでも、あるいは、死ぬことが出来れば、悔いがない。
・私が死について語るのは、生について語ることと同じだ。ただし私の生き方、話し方が、通常と多少違う、と感じるかもしれない。でもそれは、一見のことだ。私は何よりも自然を大切に思う。自然には2種類ある。いわゆる自然と人間の自然だ。どちらも自然である。
・死なないだけでなく死ねないのである。どんなに幸せとも思えても、それがいつまでも続くと、飽き飽きするじゃないか。これほど退屈で苦痛な事は無いのではないだろうか。
・自殺は人間が自由であることの証である。これは、自殺を肯定したり処理しているかのように思えるかもしれない。そうではないのだ。体の基礎は、動物の新陳代謝のスピードにし関係する。だが.体が小さくなれば、新陳代謝のスピードが増加する。つまり新陳代謝の速度が速いほど、寿命をカウントする時計が速くなり、授業が早くつけるのではないか
・余生を生きる、つまりはいつ死んでも悔い無いと思える余生は、生の充足によってよってもたらされる、というのが、ただいまの私の偽りない実感である。
・最大の長寿因は、人間が自然治癒力を持つことにある。病院を訪れる八割近くの患者が、病院で治療・投薬を受けようと受けまいと、遅かれ早かれ、自然治癒するか、どんな高度の手術を施され優れた薬品を投与されても、治らないか、のいずれかだ。
・しかも、病院に行って治療を受けたために、誤診・誤投薬その他でいわゆるに医原病に陥る患者も少なくない。一割弱いるとみていい。この割合も、古代ギリシャ以来変わっていないと言われる。
・長寿をもたらしたもの、
石鹸とガラス
日光の差し込むない屋内での生活を余儀なくされた時代から、ガラス窓から日光が差し込む生活の変化は、私の経験から言っても、健康生活を促す福音であった。あい
冷暖房
統計には表れていないが、冷暖房のない冬の寒さと夏の暑さで、どれだけ多くの人が命を縮めたか、想像に難くない。
・眼鏡、車、テレビ、それにパソコンは、老化しても、若い頃から比べると大いにスピードは落ちるが、多少とも世界とコミュニケーションをとり、仕事を続けていくことができるメディアなのだ。私見では、この4つが最大の長寿要因ではないだろうか。
・子供がたくさん死ぬから、子供をたくさん産む、これが生物界の法則だ。
・私は、死なないから増えようという必要がなくなる。これが生物界の繁殖の法則だ、と想定する。単なる仮定では無い。
・人間は「締め切り」があるから、切りをつけるべく、頑張ることができる。「頑張るな!」という声が「麻薬」のように聞こえるのは、「締め切りなんかほっときな」ということだからだ。
・長寿社会である。いつ死ぬのか、いつ最終締め切りが来るのか、わからない社会である。だが、締め切りのない、見い出しにくい社会だからこそ、自分でその都度「締め切り」を設定して生きていく必要がある点と考える。
・魂は肉体がなくなっても、独自に生き続けるという「霊魂不滅」の起源を説明したところだ。ポイントは二つある。1つ、魂の不死は、はじめ、希望やなぐさめではなく、不幸や最悪だ、と見なされたという指摘だ。…「存在」してもらいたくない者の魂は、肉体がなくなっても、いつまでも「存在」し、おなじように「害」をもたらすからだ。この魂の処理に人々はおおいに悩み苦しんだ。2つ、この「魂(アニマ)」の活動を封じる・閉じ込めるために考え出されたのが、墓である。死者は「霊魂」ともども、「墓」の中で生きる。生者は、死靈に悩まされなくても済む、というわけだ。
・しかし、総じて言えば晩節を生きたものは晩節を汚すという例が数多くある。いわゆる老害である。長生きは、生命力のたまものだ。だが、生きる自然力が減退する。自力で生きることが難しくなる。徐々にあるいは急速に、自制心(セルフコントロール)失っていく。これが心身の自然過程である。誰も逆らうことは難しい。
・一〇〇歳になった母が、「幸福」と感じただろうか?この疑問が、時に私の脳裏をかすめる。
・私には、最新の臓器移植や美容整形、健康食品や化粧品等には、「不老不死」を目指す「練金術」とつながるいかがわしいものが「混在」している、と思える。
・「人生の楽園」(朝日テレビ系)が2000年にスタートした。「脱サラ」をし、都会生活から、山・農・漁村に「移住」し、自然相手の生活をはじめた夫婦を紹介する30分番組だ。・・・・自分が選んだ新生活だ。忙しく新仕事に、新人間関係にいそしんでいるからこそ、健康で長生きできる。「新」こそ、新しく生まれたストレスを跳ね返す、ライフ(生活・人生・命)革新の鍵なのだ、というメッセージがもっと鮮明になれば、いいのに。
・じゃ、お前はなぜ田舎に住むのか、と言われるだろう。私の住むのは「田舎」ではなく「過疎地」で、都会の快適さとは真逆だからだ。実に生活不適地が過疎地なのだ。対して、インフラやライフラインという点で言うと、田舎は遥かに便利だ。好便さから言うと、都会以上だ。
・私が過疎地に住むのは、住み続けることができるのは、勤務地が魅力ある都会にあるからだ。
・「自然」はやっかいだ。私は、「自然」の中で住むのは好きだが、「動く自然」=「生物」は苦手だ。
・自然が厄介なのは、私自身が自然と縁続きである、と強く実感できるからだ。
・生物は、新陳代謝ができなくなると死ぬ。人間も同じで、死ぬとは新陳代謝ができなくなること、より正確には、生命活動を維持するための最小必要量のエネルギー量を確保する基礎代謝が不能になることだ。
・人間は自然だ。同時に、自然を超えている。「過剰な自然」なのだ。人間は、自然に存在しないものを創造する。ただし、無から有を生む「神の創造」では無い。自然を素材にした創造で、創造的「製作」のことだ。どんなに創造力豊かに、超自然なものを作り上げたいといっても、その素材は、源をたどれば自然に行き着く。自然の「模倣」に違いない。
・人間とは、最純化して言えば、「前人間」+「コトバ」である。「二足直立歩行」や「労働」も人間の特質だが、コトバが、コトバだけが、非人間を人間にしたのだ。ざっくりいう。
・わたしは、人間とは、過剰な欲望を無際限に追求する、過剰な自然である、と定義する。しかも、人間は、この自然を超えた欲望をコントロールするブレーキを内蔵していない。
・「死」は「生」の終わりである。しかし「生と」は何か?
アニマであり、アニマを持ったものをアニマルという。人間のを含めて、アニマとは、総じて、魂、精神、生命力、息をさした。「息」の中に「生」があり、「息」している者が「生きている」とされた。
・生者から死者への移行は、生あるモノから生なきモノへの移行につきない。この移行を、わたしたちは、一つの連続性をともなうものとみなしている、たしかに、死によって「あるもの」が消失する。しかし同時に、死によっても「別なあるもの」は連続してゆく、とみなすのである。
・好きなことに熱中できる、これが「グッド・ライフ」だ。年齢、性別をとわない。特に「老後」のグッドの生き方に、読書がある。間違いない。その読書が集まって「理想の図書」になる。
・人間はコトバだといった。人間は、コトバを持つことによって、人間になった。「歴史」とは「記録されたもの」であり、コトバなのだ。
・運命は避けえないが、その奴隷にならない生き方を選ぶことができる、人である。愛知(ハイデガー)は「死を想え!」という。エピクロスは、思慮は「死を思い煩うな!」という。
・およそ、自分が生きる方向(目標)も方途(手段)も、どれほど周囲の援助が見込める場合でありあれ、自分で決めなければならない。決めたら、主して自力で、実現を図らなければならない。むしろ、多くの援助があればあるほど、「自力」でゆくのだ、という覚悟が必要になる。
・医学的な死は、医者に任すほかない。どんなに頑張っても、自分の手の埒外にある。言ってみれば、自然過程だ。しかし、自分の人生をどう決着つけるかは、医者の問題ではない。もっぱら自分の意思、意識の問題だ。
・人生は紙の中にこそある。書かれてはじめて「人生」、「一人の一生」なのだ。
・たとえ強制であろうと、いな強制力を持つからこそ、「仕事」は仕事なのだ。否応もない。こなさなければならない。こなすことに、意義がある。不謹慎を恐れずに言えば、もしシベリアに抑留された人たちが、「仕事」(強制労働)を与えられなかったら、もっと短期間にやすやすと死んでいったに違いない。
・私の知る限り、「遊び」のうまい人、「遊び」を満喫する人の大部分は、「寸暇」を見出して、遊びに没頭する人だ。「逆」だ。
・どんな結びつきも、連帯と従属の二面を含む。人間は、生きるかぎり、死と結びつき、死に拘束される。「生」へのあくなき渇望は、意識しようとしまいと、死への渇望を秘めている。長命の執着は、寿命を縮める因にもなる。
・わたし流に言えば、一夫一婦を原則とする家族内で「人間の生涯」を営んできた種族だけが、現在の人間種として生き残ったのだ。
・人生の裏門が、プライベートなのは、夫婦(男女)の性愛関係が、吉本隆明的に言えば「対関係」が、閉じられているからだ。これをこじ開けて、あけすけにすると、家族も、人間社会も崩壊する。死が非人間化する。人生の裏門は、可能な限り、閉じたい。私でさえ、そう思う。
・死は運命である。抜け道がない。だが生にも死にも、表門があれば、裏門がある。裏門とは、プライベートな通用口だ。この道はとても簡便だ。しかも重要で、必要不可欠なのだ。誰にでも、何をするにでも、もちろん人生にもなくてはならない。しかし、その多くは、当事者にしか見えないまる隠されている。
・運命は、「閉幕の思想」とは関係なく、裏道を通ってひっそりとだが確実にやってくる。これは確実だどう実感できる。
・最後である。美しく終わろう。
勘酒
勧君金屈巵 この杯を受けてくれ
満酌不須辞 どうぞなみなみ注がしておくれ
花發多風雨 花に嵐のたとえもあるぞ
人生足別離 さよならだけが人生だ