合掌造り 民家園で掲示されてあった 海野謹一郎氏 |
「孤村のともし火」は飛騨白川村加須良部落に行った時の詩である。加須良は深山の孤村である。そこで感じたことをそのまま書き留めたのがこの詩であった。象徴的で短い詩句であるが、わ
たしの理念と、このような農山村の将来に対する懸念とを表わしたつもりであった。
現在、農山村は未だかつてないほど、現代経済制度の集中主義に災いされている。だから、遥かな昔から生きつづけて来た農山村が、濁流に押し流されるように、今急にその消滅の運命が目に
映るようになった。その災いを促進させているのは、医療の恵みまでが都市化され遠のいてしまったことだ。
このような大勢的推移は、白川村ばかりでなく、全国の農山村にも到来する変貌であろうと思ったのである。白川村は変貌し、加須良部落は消滅して、雑草茂る無人の境となる、その時あるの
がよく分かる。分かるが故に、私は加須良の人にも自給自足の生活を説き、系列化によって医療保健の施設を導入し、土着の安らぎを取り戻す計画を提示したのであった。
くだって、約三〇年後の一九六八年(昭和四十三年)六月三十日の朝日新聞は紙面一杯の色刷写真入りで、飛騨の白川村加須良が全部離村して無人の境になったことを報道し、同じ年の八月十
七日、NHKテレビも白川村加須良の人ぴとが、泣きの涙で全戸離村したことを報じていた。
約三〇年前、飛騨の農山村が次々とそうした経路をたどり、全国の農山村でおなじ運命になることを予知しえたのは、親しくその地を訪ね、医師のいないなげきを聞き、その解消についてともに語りともに土着のやすらぎをえる生活について論じたからにほかならない。しかるに現状は、その反対を示しつつあり、一般の情勢はますます私の懸念を裏打ちするように進んでいる。
近代経済制度の過程でヽ医療も農山村から遠ざかって行った。辺地農山村の人はそれに最大の不安感を示した。これが離村の原因に結びついていた・農と医は農山村の生活文化の二つの条件である。
今、見直されたように、辺地農山村の中枢病院のことが言い出されている。
しかし、それは足が地についていないのではないか。「土着のやすらぎ」をただ医の面から言っているにすぎない。医と生産生活が一体になってこそ、農山村の文化は花開くであろう。
現在の歪み、おかしさは、「米」の問題に端的にあらわれている。
わが国にも食糧の危機があった。米を求めて死に物狂いであった。米は貴重品であった。空地に田を作り、内海を干拓して大規模な米作地をつくるのが国の政策であった。一方、平和国家を目
指し、国民の労働力で平和産業を興した。農業も工業も成長し発展した。しかし、一方は大企業であり、農業は個人の零細経営であるこわが国の工業製品は海外に大量に輸出された。その代償と
して小麦その他の食糧の輸入を強いられる。そこに買弁的現象がおこる。これは、自国を犠牲にして外国と取引きし利益を得ることである。国民は輸出代りの小麦など輸入食糧に慣らされて、米
離れしてしまった。米作はアジアの風土に適している。米は昔からアジア大の主食だ。政府は今、米を持て余して、米を作るなという強硬手段である。米を食べよという政策はない。農業の危機
迫り民族の死活にかかわる。
このように考えていた祈、秋田県八郎潟干拓地入植農民の坂本進一郎氏(氏は東北大出の変わり種入植者である)から米を贈られた それに対し私は「お米」と題する詩をつくって送った。
お米は真実うまい
なぜ米食べぬ
白米好きなら
胚芽だけ
工夫して食べよう
土あるところに
文化おこる
自給自足は
民族自立の文化
滅びない文化
お米よ
有難う
坂本氏はこれを見て感激し、浄書を願ってきた。浄書とともに私は「この詩はあなただけに差し上げるものではない。私のための個人の記念でもない。もっと広範な人々のためです。時代の成
りゆきが目に見えるようであるからです」と前審きして、次のように書き添えた。
「農民が滅びるとき国は滅びる・自給自足は国の礎。農村栄えるとき国興る。何が起こっているか、高いところに上って世界を展望しよう。やがて来る危機を考えるとき、食糧の自給自足と健
康保全ほど重要な文化はないと思われる。食糧生産を買弁的なものにしてはならない」と。
四〇年前のわたしの詩「孤村のともし火」と「お米」はつながっている。つながらしたものは、原生林の古木は切り出されて山里は裸山になり、食べるに余る田畑は荒れ果て雑草茂り、全国の
農山村は国際主義に巻き込まれ、農業の危機迫り、村医者は姿を消して跡方もない、という現実の推移である。
昭和五十五年八月八日
海野 金一郎(うんの きんいちろう)
1903年仙台近郊の奥村に生まれる。
1927年東北帝国大学法文学部に入学、のち医学部に転郎。
秋田医療利用組合病院外科に赴任、川添村診療所長として勤務。
1934‐39年
名古屋医科大学副手に命ぜられ、同大学斎藤外科教室に勤務。
1939年飛騨医療利用組合連合会久美愛病院外科に赴任(副院長)、
.翌年、院長、理事となる。
1943〜45年
久美愛病院を辞任して岩手県胆沢痢院長、釜石痢院長歴任のかた
わら「農山村医学研究所」に糖をおき農村医学の研究をつづける。
1945年終戦とともに仙台市郊外に移り開業、64年仙台市内に開業。
1970年妻追手とともに飛騨を再訪し、同志たちを墓参。
詩集「不忘山」(1975年)、「文芸東北」「仙台文学」同人。
農山漁村文化協会入間選書「飛騨の夜明け」あとがきより抜粋
「孤村のともしび」
深山も古里なれば これ地上の楽園
灯細くても睦て 太古永遠を誇る
この里に老を養いて 青年は去らず
道を聞けども樹を売らず
山に古木繁れば 財なけれども心豊かなり
土地を拓きて 田畑を作り
自活するは天理に従うなり
祖父の財を売る者は 自ら亡ぼしその里をも失う
果樹を植えて 力を養うべし
鶏鳴を心中に聞くべし
星を眺めて 生命を楽しむべし
深山の古林にも なお日月訪れるなり
牛馬の瞳にも泰平の光宿る
このブログに、孤村のともしびの一節が掲載されています。
確かに、涙なくしては、読めない場面です、九歳の子供が、肺炎と思われる病で命絶えてしまう、そこまでなら、孤村は大変だね・・やっぱりで終わるのでしょう。しかし、雪を迎えるこの時期には、まだつづく悲劇、検死の医者が来てくれない、来れない、
翌年、春になっても・・・やっと来てくれることになった医者がなんとも、悲劇の結末を迎える
やるせないです。
民家園でやっていた、DVD昭和四三年離村ちかい桂集落です
<越中桂集落>
水と食料があればどこにでも住んでいける
人はなぜ僻地住んだのか、全てが僻地だった。
昔は普通だったことが今では普通ではなくなった。
大人になると雪を呪うようになる
家を守る大人がいなくなったということだ。
雪で村が孤立する
囲炉裏を囲むのも今年が最後かもしれない
追記 2021/09/20
忘れてましたが、どなたが、訪ねてくれました。
ありがとうございます!