心が疲れたらお粥を食べなさい 吉村昇洋著 |
<抜き書き>
・仏門に入るまでの人生の中で、制限のない食事の美味しさを知っている分、それにも引けを取らない味を探求し工夫して、その修行僧たちに美味しく食べてもらいたい。私はそんな気持ちで料理をしてきました。
・縁あって仏門に入った現在の私は、肉・魚・卵・ 五葷(ごくん)の入った食事が目の前に出された時、それを食べないように取り除くようなことはせず、すべて美味しくいただくようにしています。
・ところが、どんな状況であったとしても、執着心から離れる方法はあります。それは、目の前の事象を一つ一つ丁寧に扱うことです。執着心はただの思いですから、事象とそれに付随する思いを分けて捉え、自分にとってどのように機能しているかを把握しましょう。もしかすると、別のことで代用が効くかもしれません。
・応量器を使った食事作法を眺めてみると、両手とも不浄指(薬指・小指)は使わない。「器の縁に指をかけない」「極力音を立てない」「両手で扱う」など、決められた型があります、それらは全て物を丁寧に扱うと言う共通した機能が備わっています。
・「食事中はしゃべらないこと」、「箸や器を必ず両手で丁寧に扱うこと」、「口に食べ物を入れている間は、箸を一旦おくこと」
・どんなことでも構いません。自分が日常的にやっている行動のどれか一つでも、今までより丁寧に行ってみてください。
・咀嚼以外の精神活動を抑制し、自分の身に起きている”今この瞬間”に向き合う姿は、座禅にも通じる所です。
・美味しい食事を食べることに喜びを見出そうとするのではなく、どんな食事でも美味しく食べられる事に喜びを感じられるように意識を変えていきましょう。
・私が生かされている存在であれば、他者も同様な存在であるかもしれないわけですから、私を生かしてくれている場所や環境に対して感謝の気持ちが湧いてきます。
・理想を言えば、最後に料理をお皿に盛った段階で、シンクに洗い物が数個しかない状態が望ましいでしょう。
・使用する食材を限定されるだけで、ちょっとした冒険が始まります。
・現代の食事には、食材を食べているのか調味料を食べているのか分からなくなるような料理も見かけます。精進料理では、食材のオリジナルの味を大切にするので、この淡味という概念は非常に重要なわけですが、これを例えるなら、装飾品で着飾った自分ではなく、着飾らない素の自分で勝負するような座禅の潔さに似ています。
・量の多い少ない、質の善し悪しをあげつらってはならない。ただひたすら誠意尽くして調理をするだけであると道元禅師は言われています。
・典座教訓にある三心と言う考え方に沿って見ていきましょう。まず「喜心」とは他人の利益のために尽くし、その人が苦を離れて楽を見るのを見て己の喜びとする心のことをいいます。
次に「老心」ですが我が身をかえりみず、深い慈から親身になって他者に関わる心のことをいいます。
最後に「大心」ですが、山のようにどっしりと構え、海のように広々とさせて、一方に偏ったり固執しない心を指します。
・レシピ通りに作る経験よりも、試行錯誤の経験の方が、私にとっては重要な経験であったといえます。
・干椎茸は、使う前に20分程度天日干しするとうまみが増ます。最初に戻したぬるま湯には、臭みが強く出ますので、もったいなく感じるかもしれませんが使いません。
・まずは調理の合間に、こつこつと洗い物を片付けてしまうことです。フライパンにフタをして、弱火煮詰めている間や、麺類を茹でている間、その他にも調理中の空白の時間ていうのは案外あるものです。ほんの数10秒もあれば、誰でも鍋の1つ位は洗い終えることができます。
・面倒くさいことをただ面倒くさいで終わらせるのではなく、片付けてきれいになったと言う結果に対する満足感以上に、自分にとって意味あるものにすることができるということを知って欲しいのです。
・つまり菌の繁殖を抑えるのは、洗剤の力よりも、物理的に食材が残っていないことにかかっていると言うことです。
・お湯を使うことで、引き上げた後の渇きが圧倒的に速くなるのです。乾きが早いと言う事は、その分雑菌の繁殖が抑えられると言う事でもあります。
・ 禅のシンプル生活は実に理にかなっているのです。最小限の持ち物を工夫して使っていき、もので溢れることを嫌うので、永平寺の部屋は生活感がないほど物が置いてありませんでした。
・究極のところ、便利なものと必要な物とは異なります。整理をして片付けるにしても、ものが少ない方が楽である事は誰にだって想像がつきます。
・片付けとは片付けの最中だけのことではなく、そのずっと前の段階から始まっているということです。
・自分は傲慢であると最初に認めることで、高慢な態度を取らないようにするにはどうしたらどうすれば良いかを考え、実行すればよいのです。
・しかし、これほどまでに食行為に三毒が露見しやすいのは、やはり生きながらえようとする自己の命と直結している行動だからなのでしょう。つまり、三毒と向き合う事は、自己の命の在り様と向き合うことと同じと考えてよいのです。
・道元禅師は、食事の場こそ修行するには最高に適していることを示唆しています。美味しいものに対しては必要以上に執着の心「貪」(とん)を起こし、空腹になれば怒りの心、「瞋」(じん)がわき、食べること自体が自分にどんな意味があるのか理解しようとしない真理に対する無知の心「癡」(ち)がでるのでこれらを克服すべき最も根本的な3つの煩悩とダイレクトに向き合える場所としてはうってつけの条件が揃っています。
・今までの人生の中で、最も美しいと私は感じた存在は、永平寺の修行僧たちでした。完全に没個性の場にありながら、一人ひとりに目をやると、立ち振る舞いが美しいのです。その答えは、丁寧さです。
美しい生き方=丁寧に行動する=とらわれから解放された状態