財布カラだけど、任せとけ!こういう人がいるから人生は! |
東京は荒川区で運送業を営んでいた堀田はその頃、小2の次男に三輪車をつくってやった。学校から「低学年は危ないから自転車禁止」というお触れが出て、「じゃあ三輪ならいいだろう」と。昔からモノをつくるのが大好きで、自動車メーカーに動めたこともある。普通の三輪車じゃ面白くないと、ペダルはミシンのように足を踏み込んで進む形を考えた。
近所の子が行列をつくって遊ぶ様子を、近くに住む中年の女性が見かけた。ずっと片方の足が不自由で、買い物一つにも苦労する。足を回さなくていいなら、ひょっとしたら私も……。貸してもらって踏み出すと、ちゃんと前に進んだ。
「生まれて初めて自転車に乗れた。お願い、私にもつくってください」
助けになれるのがうれしくてヽ仕事が終わってからの時間を使い、2ヵ月かけて大人用を一からつくった。評判は広がった。
ある日、出先から帰ると、松葉杖をついた若い男性が立っている。「自分の力で生活できる乗り物が欲しいんです。どうか・::・」。次の日も、また次の日も障害がある人が訪れた。来前者はひと月で20人を数えた。
「この人たちに応えたい」。一本気なのは子どものころからだ。妻の和子(70)が反対する間もなく商売道具のトラックを売り払い、駐車場にテントを張って作業場にしてしまった。
36歳の9月、「堀田製作所」の始まりだった。当然採算はとれず、家計は苦しい。そのうち、子どもの給食費さえ困るようになってきた。
「廃業するしかないか」。そんな風に思うようになっていた4年目の春。タンチョウの生息地で知られる北海道の鶴居村の男性から、一人っ子の小4の息子のために1台つくってほしいと声がかかった。小児まひを患い、片足が不自由になったという。
依頼者には必ず工場に来てもらい、この目で様子を確かめてから請け負うのが堀田の流儀だ。
「子どもを1人でうかがわせます。こんな親ですみません……」
堀田は羽田空港まで迎えに行った。飛行機が到着し、乗客がロビーにあふれる。しかし、それらしい子どもは見当たらなかった。「だまされたのか」。そう思い始めたころ、大きな荷物を背負った男の子の姿が見えた。足をひきずり、少しずつ前に進んでいる。
「大変だったな、よく来たな」。声をかけた堀田の顔を見て、男の子は、はにかんだような、何とも言えない表情をみせた。堀田は、疑った自分を恥じた。男の子を1週間自宅に泊め、仕事の合間には東京タワーヘ連れていった。まだめぐり合っていないだけで、こんな子たちがきっといっぱいいる。やめるなんて言えるか。
堀田はその後、男の子の成長に合わせ、大学卒業まで5台の自転車をつくった。
それにしても、お金がない。今晩のご飯はどうしようと財布をのぞくと、100円玉もないのだ。
次回、なお続く堀田夫妻の苦闘と光明を。 朝日新聞