「平穏死」という選択 石飛幸三著 |
<抜書>
・「朝、無理に起こさない。目を覚まして、食べたがったら食べさせる。欲しがらなかったら無理にはたべさせない。お腹が空いたら食べる。もし食べたくない日が続いて、それで最期を迎えるのであれば、それが寿命だ」
・自分の場合は望まないのに、家族に対してはそれを押し付けてでも生きてほしいと考える、人間の感情は不可解です。
・「自分の望まないことは他人にしない」これは倫理の基本中の基本です。
・本来患者本人のためであるべき医療技術が、「あるならしなければならない」という本人の益とはかけ離れた考えで活用されえいる。これが、老衰の現場で起きていることの実態です。今、我々に求められているのは、本来の使命を取り戻すこと、まさに自律でありましょう。
・人間いずれは死にます。医療という方法があるから、命がのばせるならしなければならない。延ばした時間をどう過ごすのか、それはその人の時間のはずです。どれを方法があるからと、医者がその人に押し付けてよいはずはないのです。
・生きている時間、生きるということは生きている人間のものです。医者のものではありません。・・・ただ命を延ばすことが救うことになるわけではないのです。
・内科的医療の代表である薬の投与にしても実は諸刃の剣なのです。・・・果たして95才という超高齢の人に、検査だ、治療だ、という必要があるのでしょうか。
・実際のところ天気なんてどうでも良いのです。お互いににこやかに声を掛け合えることが大切なのです。
・現代の日本はまた変な社会でして、そんな本音(病院だってなんでこんな年寄りをわざわざ送ってきたのか、いまさら何をしろというのか)を漏らそうものなら、やれ高齢者を見殺しにする気か、それでも医者か・・・とばかりにヒステリックに叩きます。
・「じいさん、もういいよな」と医者が言わなくなった。いつか命の限界がきて終焉が訪れる。その厳然たる事実と向き合いたくない人が増えているのです。
・それどころか、医者は患者さんに「ああ、それは歳のせいですよ」ということも言いにくい雰囲気になっています。歳のせいと言われうと不安になるのに、病名をつけられると安心する、というのもおかしなことです。やはり、病気なら治る、しかし寄る年波には抗いきれない、それを受け入れたくない、という気持ちがあるからでしょうか。
・自然に任された老衰死は幸せなことなのに、なぜいつまでも古い時代の刑法に囚われているのでしょうか、そのほうがよほど不自然です。
・胃ろうをつけた人に対して一年間にかかる医療費と介護費の合計は、約五百万円だといわれています。現在、胃ろうをつけた寝たきりの高齢者の数は、三十万人とも四十万人ともいわれています。毎年一兆〜二兆円の税金が使われていることになります。
・どこまでも延命措置をすることは最期を乱すことになるのではないか。むしろ、「しないこと」のほうが本人を保護することになるのでないか。こうした考えは、介護の施設の現場で経験を積めば積むほど、強くなっていきます。
・本当に自分のことが見えるのは、成功体験ではなくむしろ逆境の中です。我々は苦しみを通して自分を知り、こころの柔軟性を得るのです。不幸な体験を通して人に優しくなれるのです。生きる意味は誰かが教えてくれるものではない、山坂越えて生きることを通して自分でつかむものだと思います。
・食べさせないから死ぬのではない、死ぬのだから食べないのだ(ハリソンの内科教科書)
・年寄りというのは、社会で役目を終えた存在なのです。若い世代におんぶに抱っこの姿勢で寄りかかって余生を生きるのではなくて、もう棺桶に片足を突っ込んだ者としてのスタンスで世の中に関わる。その時がきたらひっそりと静かに身を引いていく。蓮台野(遠野物語:60才を過ぎた老人を追い込む場所)の老人からは、そんな能動的な老人たちのイメージすら湧いてきます。
・今最も求められるのは、市民の結束による地域連携、そこに働く者の直感力と少しでもそれに貢献しようとする人としての”徳”ではないかと思います。
・今日が何日か、何月か、天気がどうか、そんなことは二の次、三の次、長い人生を生きてきて、実はもっと高次元なことを問題にしているように思えます。少々の間違いは大目に見て、好きなようにさせてあげましょう。
・年寄りが自立して生活できて、生きがいの持てる社会にすればよいのです。過保護にするかから変なことになってしまう。
・死は怖いものだという思い込みにとらわれてはいけません。老衰の終末期、自然な最後は、一生懸命に生きてきた者にとっては神様が与えてくれる永遠の休息ともいえます、その最後の姿は、寄り添って介護した者に敬虔な祈りの気持ちをもたらします。
・姥捨ての「楢山節考」の世界には、むらの存続を願う老人の誠意がありました。だから、あの物語にみんなが感動するのです。我々は、感動する生き物です。生きがいをつかんではじめて自分の一生の意味を感じることができるのだと思います。
・わたしの大好きな言葉に「人間の第一の務め。人間であること」というガエタノ・コンプリさんの言葉があります。人間の務めの最後の締めくくりとして、私は「平穏死」を提唱します。「平穏死」の扉を開くのは、我々一人ひとりの意識だと思います。
最期まで家で過ごせたら幸せですが、もし一人暮らしになれば難しいように思います。
・「ひとり死」は「孤独死」とは、まったく違う。ひとり暮らしの人が、ひとりで死ぬことを、価値判断抜きに、「在宅ひとり死」と呼ぼう。その覚悟さえあれば、ひとり暮らしにはなんの問題もない。
・家で最後を迎えるための条件
①24時間対応の巡回訪問
②24時間対応の訪問看護
③24時間対応の終末医療
・ひとりで暮らしてきたのだもの、ひとりで生きてきたように、ひとりで死んでいけばよい。
同年代の友達は、老人ホームに入ると言っています。
家事が出来なくなれば、私も多分入るでしょうね。