「平穏死」のすすめ 石飛 幸三著 |
なかなか、良い本で、いろいろ考えさせられます。この考え方が広まれば、もう少し、家族の悩む時間が減り、医療費も削減されるのではないでしょうか!そして、一番肝心な死にゆく人(生きている我々も含めて)が、平穏に死んでいけそうな気がします。
・これまで延命至上主義が支配する空気の中、これで良いのかと内心では、疑いながら、黙ってなにを言わずにただ反射的に医療に依存し、人間の最期を自分たちの手から離していった者たちが、もっと人間らしい穏やかな死に方があることを知った、これは画期的な出来事でした。
・Hさんの死は、あくまで寿命に従うように徐々に余命を過ごすお年寄りの最期はそれほど悲痛ではないように思える。実際お疲れまさでしたと言ったような気がする。Hさんの死は私たちの封印された死の扉をそっと開き、死の安らぎを教えてくれたと思う。死が良いことか悪いことかの二元論ではなくて、死と生は同じ場所に依存するものとして明確に標してくれた。(初めて死に接した夜勤の看護士さん)
・特に多くの医者は老衰という病態に戸惑うことが多く、死因として何らかの病名をつける必要を感じてしますのです。・・・だが老衰は現実に高齢者では多く見られる病態です。医療行為は果たして必要なのでしょうか。老衰はとめることはできません。医療処置はかえって無理難題を押し付けることになりかねません。
・十年前は患者さんに「それは歳のせいですよ」とは、相手に悪いようで言えませんでした。しかし、最近は割合抵抗なく言えます。かえってそれが病気でないという安心感を生み、受け入れを促がしている場合があります。・・・人生は自分のもの、幕の引き方は本人の選択によるものという意識が高まって、家族もそれに沿う判断をすることが多いように思います。
・独白
はじめはなんて変わった人々だろうと思った
毎日付き合っていると少しばかり違うけど
大して自分と違いはないように思えてきた
私だって人からみれば相当変わった奴らしい
お互い手を取り合うと無性に嬉しくなった
・死は個人のものという考え方がある一方、死は個人だけのものではない、その個人を愛する者のものでもあるという考え方があります。そうだとしても、胃瘻をつけて長々と生かす、こんなことが許されてよいものでしょうか。死への時間をもっと大事にすべきではないでしょうか。
・特に病気が治療が使命の医者は従来そのように教育(延命主義という体裁)されてきました。しかし今の対象は生物学的に寿命がきて、本人も静かに幕引きしたい、周囲も穏やかな終焉をと願っているのです。これは病気ではないのです。天寿なのです。ここで最期の時を決めるのは医療ではありません。人間が決めてはいけません。正に時の流れに身を任せるべきなのです。
・多くの医師は、・・死については教わりません。死は排除されているのです。人の死までコントロールできるような錯覚にとらわれています。欲望を満たしてくれるものとしての医療過信、生きることへの軽薄な取り組み、これが今日の日本に影を落としているのではないでしょうか。
・また長年老年医学を研鑽している上村和正氏は、老衰で死ぬ場合は、栄養や水分の補給がない方が楽に逝けるという立場をとっています。
・せっかく楽に逝けるものを、点滴や経管栄養や酸素吸入で無理やり叱咤激励して頑張らせる。我々は医療に依存し過ぎたあまり、自然の摂理を忘れているのではないでしょうか。
・機械ではないのです。エネルギーを供給していつまでも動かしておけばよいというものではないでしょう。
・私は老衰の終末期における自然死においては、亡くなることをそのまま看取ることは、当然の行為として正当な業務になりえないのか、そうすれば、違法性の点でも犯罪の成立要件をクリアできるのではないかと考えています。
・看取られる状態の身体が必要としている量は更に少なくていいはずです。・・・ただ食べさせればよいというものではありません。思い切って食べさせない勇気も必要なのです。
・かって三宅島には医者はおりませんでした。島民は歳をとって最期が近づくと、食事が取れなくなって最期を迎える。自然のまま最期を安らかに迎えるのです。・・とにかく経口摂取でむせるようだったら量にこだわらないで減らすか、中止する勇気を持つことです。
・「場所づくり研究所」宮地成子さんは、お話の中で印象深かったことの一つは、「口から食べられなかったら、もう先が長い(短いが正当のように思えるが?)状態である」ということです。
・困難を乗り越える方法は、問題を正面から受け止め、断崖に立って闘うしかないと思います。人生では何をしたかでなく、どう生きたかが重要ではないでしょうか。生きていくということは、正しいと信じる自分を生かすかどうかの闘いではないでしょう。
・医師は病気を直せても、それはその人の人生の一時期の事件を解決しただけであって、根本的にはその人の人生の、大きな流れを変えることはできないということです。
・種の一個体が、種の存続のための鎖の一つの輪を担っていると思うと、人間は誰しも、それなりに歴史の一部に関与していることになります。どんな成果であれ、あるいは成果がなくても、最後に残るのはその人がこの世に生きていたという紛れも無い事実であり、その人がどう生きたかであります。
・オランダのホームのワーカーは、「私たちは食事は並べるが、無理に食べさせたり、チューブを入れたりしない。そのままでも安からに死ねる」と手紙を送ってきたそうだ。
・老衰のため体に限界が来て、徐々に食が細くなって、ついに眠って静かに最期を迎えようとしているのを、どうして揺り動かして、無理矢理食べなさいと口を開けさせることができましょうか。現場を知っている者からみると考えられないことです。もう寿命が来たのです。静かに眠らせてあげましょう。これが自然というものです。これが平穏死です。