相田家グッドバイ 森博嗣著 |
何か気になる人ではありましたが、直接のきっかけは、この本が書評に掲載されたことです。その時、何に触発されたのか、覚えていないのですが、読んで良かったです。
普通の人?とは、考え方が違うし、すっきりしているのが面白いと思えます。
・親というものは、過剰に子どもの心配をするものだ。これが普通なのだ、とよほどのことがないかぎり思い込んでしまう。
・若い頃には、それが夫婦喧嘩の主テーマとなるほどだっ。すなわち、価値観の相違というのか、「ふつうこういうものだ」という基準が人によって大きく違っていることが、お互いの理解の妨げになることが多い。また、こういった喧嘩をしなければ、本当の個人の価値観は顕在化しない。
・不謹慎といわれるかもしれないが、彼は、両親の死によって、ようやく自然の状態になった。
・自然な状態、それは別の言葉で言えば自由だ。
・両親がことあるごとに、そんあ不幸を見越した話をしていた。親がいなくなったら、お前は自分お力だけで生きていかなければならない、そのためにも、今のうちに、これを習得しなければならない、しっかり勉強をして、栄養のあるものを食べて丈夫になり、できるだけ早く一人前になるのだ、と教えられたわけである。
・人間というのは、信じてしまえばその通りになる、そういう性質を本来持っている、医師がこの病気と伝えれば、それに似た症状が実際に現れる。発作だって起きるし、これが特効薬だと信じれば、それが治まりもする。
・母紗江子の第一の特徴は、ものを整理して収納することである。・・・しかし、彼女の場合、それは完全に度をこしているのである。
・父秋雄は、このように同じ失敗を繰り返さないように自分の行動を分析するタイプで、こういった性質も商売の成功につながった一つの要因といえるかもしれない。そして、その根底には、なにごとも理屈が必要だという信念があった。
・紀彦は、ものごとを解決するためには、道具を持っているだけでは駄目だ。あらかじめ道理を理解していなければならない。その理解がなければ、自分が間違っていることさえ気づかないと、知ったのである。
・人と違っていることを気にすることもなく、むしろ、違っていることを密かに楽しんでいた。
・完成されたおもちゃは買ってもらえないが、ものを作るための道具や材料を買いたいと願いでれば、ほとんど要求どおりの金額が母からもらえた。
・(父秋雄)怒らなくなってしまったのだ。これも、彼の変化の一つだった。激しさがなくなり、悟ったかのように穏やかな毎日を送っているように見えた。
・すべて箱に整理して仕舞ってある。何一つ捨てていない、捨てられないのだ、この家にある、というだけで紗江子は安心できた。消えてしまったのは、(亡くなった長男)朋樹だけだった。
・生きているのが大事なことは当然だが、どんな状態でも生きていさえすれば良いのかといえば、紀彦はそうは思わなかった。不自由であるならば、むしろ死んだ方が良いのではないか、といった極端は判断は難しいものの、それに近い感覚が彼にはあった。たとえば、寝たままの五年間と、自由に飛び回れる三年間のどちらかを選べと言われたら、迷わず三年の方を採る。違うだろうか。
・紀彦は、ありがとうと言ってあげてはどうか、と答えた。それから、病人はあれこれ心配するものではない、みんなに感謝した方が、自分もきっと楽になると思う、と話した。
・あるいは、さらに理想的なのは、誰にも見とられず山奥で静かに死ぬことだ。そういう、孤独こそが、本当は一番望ましい。・・・そこまでの自分勝手は許されないかもしれない。だから、妥協点として、ありがとう、があったのである。
・だから、普通にあるような、寂しがりやの老人では全然ない。若者に相手をしてもらいたいのではなく、放っておいてほしいのだ。だたし、一人だけではなかなか生きられない。そういうことを紗江子がいなくなって見に沁みてわかったようだった。
・年老いて死を迎えるということは、そうやって、少しずつ自由を奪われることなのだろう。子どもの頃から成長し、一所懸命働いて、すこしずつ獲得した自由を、今度は手放していかねばならい、すっかり手放してから、あの世に旅立つのである。
・ただ、今後は、そういった仮想空間(コンピュータ)で老人が自由に振る舞えれば理想的だな、とは少し考えた。
・動物の生き方としても、子どもが年老いた親の面倒をみることは自然界にはない。だからそれは、不自然なことなのである。人間だけがそれをしてきた。それが人間の美徳とされてきた。
・無駄に生きるというのは、つまりなにもしないことだ。なにもしないというのは、なにも作り出さない、ということだろう。それでは、外側から見れば死んでいるのと同じ、そこにその人間がいないのと同じことになる。
・一方で秋雄はなにもかも無にしたかったのにちがいない。彼の人生の前半は、自分の周りにいろいろなものを構築する時代だった。特に、その大半は物体ではなく理論だっただろう。そして、人生の後半では、その理論を否定し、物体を棄て、どんどん最初に戻っていったのだ。あまりにも潔い生き様だったように思えてしかたがない。
・そして人間というのは、そもそも生まれて物心ついたときから、意地をはって生きているのではないだろうか。動物というのは、そもそも意地を張っている。一人で生きている。助けをもとめるようなことはしない。みんな、自分だけで頑張っているのではないか。
ただ、それでも、頑張っているね、と言われると、
何故か、少し照れくさくて、少し嬉しい。
それは、紗江子が秋雄に言ったありがとうと同じだ。
追記 2024/02/23
森さんの最新作を読んで、過去にどんなことを書かれていたのかに関心が、
なるほど、こうやって、育てられてきたのかと、ちょっと分かったような気がしました。