魂にふれる 若松英輔著 |
・死者を見出そうと願うなら、「死」に目を奪われてはならない。・・病気は存在しない。いるのは病に苦しむ人間だけである。死ではなく、死者が存在しているのではないだろうか。
・生き抜くとは、長く生きることではないが、深く在ることではある。上原は何人たりとも人間は、生を深める「自由」を最後まで奪われるべきではないと訴える。
・ここで必要なのは、生きる意味についての問を百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることから何を期待するかでなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ。(夜と霧) 生きている問には、「ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される」のである、と。
・(わたしたちが生きることから何かを期待するのではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ)ということを学び、絶望している人間につたえなければならない。
・「夜と霧」で彼が「英雄」と呼ぶのは、病に倒れ、死期を直前にしながらも、魂が深化することに感謝する若い女性であり、奪い合わねば自分が死ぬという状況下で、他者にパンを分け与える者、あるいは通りすがりに思いやりのある言葉をかける者である。
・死者とともにあるということは、思い出を忘れないように毎日を過ごすことでなく、むしろ、その人物と共に今を生きるということではないだろうか。死者の経験とは「見る」経験ではない。むしろ、「見られる」経験である。死者は「呼びかける」対象である以上に、「呼びかけ」行う主体なのである。
・わたしにとって「哲学」と「思想」の違いは明快でありまして、哲学は「自分で考えるもの」、思想」は「取ってつけるもの」と、こう端的にわけることができます(池田晶子「暮らしの哲学」)
・「人は、自分の人生に密着しすぎている。そんなふうに感じることがある。別の言い方をすれば、人は人生を生きるのは自分であると思い込んでいる。(あたりまえのことばかり)
・感動とはないものが満たされたことをいうのではない。内に秘められた実在と外なる現象との、共鳴と共振そのものである。感動するとき、そこに対象は存在しない。そこには主客の別はない。むしろ、主客の逆転があって、対象がわたしたちを包み込むのを感じる。そのとき、私たちは存在が一なるものであること、存在の一性をかいま見るのである。
・しかし、生者と死者は協同する。死者を論じることは、死後を論じることではない。死後のことは、死したのちにしか経験され得ない。しかし、死者は、生者の現在、今、ここの問題である。・・・死者は観念ではなく、実在である。それは思われる対象であるよりも、思う主体であり、呼びかけを待つ者でなく、呼びかける者なのである。
・死者は天界の住人ではない。死者とはあくまで現象界で生者と随伴する、不可視な他者の異名である。彼らは生死の区別のない実在の世界では、「死者」ではなく別の名前で呼ばれているだろう。万物が「存在」を分有されて存在しているのであれば、死者もまた、生者と同じく存在者である。
・私の中に心があるのではない、心の中に私があるのだとは、ユングも行き着いた壮大な逆説である。(池田晶子「あたりまえのことばかり」)
・死者との関係において、待つことほど貴い営みはない。そこには信じることも、愛することも、また希望も祈りもあるからである。日常を生き、死者と出会う日を、ただひたすらに待つ。その営みが死者を祝福するのである。
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いったん肉体から分離した魂は物質的世界から離脱して非物質的存在となり、本来の自分自身になろうと努め、肉体の支配下にあっだ人間的意識にとらわれない限り魂の自由を獲得し、離別した現世の地上的磁場からも解放され、生きる死者として死の彼方で自立するのではないか。従って著者の言う「悲しみ」の主体は死者の接近によるというより、むしろ生者の側の「悲愛」が作り上げるイリュージョンではないかと思うのだが、如何であろうか。 評 横尾忠則
難しいですが心に沁みます。