魂にふれる |
この画面からは著者のいう死者の側からの悲しみを伴った「呼びかけ」というよりも、祖父の家に引き取られて笑顔ではにかむ幼い姉が心の奥で感じたものは、むしろ悲しみからの自立ではなかったかと僕は思うのである。それに対して妻に先立たれた著者の「悲愛」を手放さない魂に触れる時、なぜか切ないものがこみ上げてならなかった。
いったん肉体から分離した魂は物質的世界から離脱して非物質的存在となり、本来の自分自身になろうと努め、肉体の支配下にあっだ人間的意識にとらわれない限り魂の自由を獲得し、離別した現世の地上的磁場からも解放され、生きる死者として死の彼方で自立するのではないか。従って著者の言う「悲しみ」の主体は死者の接近によるというより、むしろ生者の側の「悲愛」が作り上げるイリュージョンではないかと思うのだが、如何であろうか。 評 横尾忠則