幸田露伴の努力論を読む 運が味方につく人つかない人 渡辺昇一著 |
・しからば自信は、どのようにしたら堆積できるだろうか。これは、「自分がやろうと決めたことを成し遂げる」ということに尽きる。
・われわれは、どんな小さなことでも自分で決めて、それを成し遂げる努力をすべきである。そしてその習慣をしっかりと身につけ、この習慣によって自信を強め、この自信によって有益なる勇気を確実なものとしよう。そして、どんなことでも、途中で投げ出す習癖は絶対に身につけてはならない。その悪癖は自信力を壊滅させ、自信力の壊滅は勇気の枯渇につながっていく。
・渇いた人に水の一杯を与えるぐらいのことは、どんな貧乏人にだってできる。・・・・それをこんなちっぽけな行為になんの価値があろうかといって実行しない人がいる。これはあきらかに見当違いで、一粒の種子が巨木に育つことが理解できれば些細なことが必ずしも些細なことで終らないことが理解できるはずである。
・才乏しく貧しいものにとっては、努力だけが唯一の味方だと断言してよい。
・天才の仮面の下は、いつだって努力の匂いがする。
整理しようと思ったら付箋がついているので、抜き書きしたはずが、送信してなかったみたいで、あらたに抜き書きしたものが、宙に消えました!
・われわれにとって勇気が重要なのは、現在の生活をよくし、将来の進歩向上に役立つものだからで、いいかえれば、現在および将来の生活に緊密なかかわりのある勇気だけが重要なのである。
・<有福>は祖先のおかげであって評価すべきところはない
<借福>の工夫のある人は工夫してもよい。
<分福>の心あるひとはさらに尊敬してよろしい。
<植福>できる人こそ最も尊敬しなければならない。
有福の人は、あるいは福を失うこともあろう。借福の人は福を保持できるかもしれない。分福の人はさらに福を招くことができるであろう。そして、植福の人こそ福を創造することができるのである。
・どんな些細なことでもよい。第一着手は「なすべきをなし、なすべからざるをなさず。思うべきを思い、思うべからざるを思わず」決意実行することである。
・食事をしながら新聞を読んだりすることは、だれしもよくやることだが、これはやめてほしい。食事は心静かに、飯は硬いか柔らかいか、味は濃いか淡いか、あるいは煮魚は何の魚か、鮮度は新しいか古いか、食事に全精神をこめなければいけない。
・皮肉なことだが、病気が人間をどれだけ啓発してくれたかわからない。このように見方を転換すれば、自分が招いたのではない病気もまんざら捨てたものでもないかもしれない。
・私が掲げたい教育の標的は次の四つだけである。
一、正 二、大 三、精 四、深
正とは、<中>である。横道にそれたり、偏ったりしないことである。
人学べば、すなわち大となり 「大」には、<広>の意味も含まれている
精は、その対語である粗を考えるとよく理解でする。粗とはゾンザイなことだ。
精とは、物の実質がよく、緻密でよく磨かれ、正しく選択され、姿形・組立が美しくしっかりしていることをいう。
大なることだけを努力して深を怠れば 、浅薄なものになってしまう。
・人にとって大切なことは、いつも<やわらかみ>と<あたたかみ>もっていることだ。「助長の作用」はしても、「剋殺の作用」をしてはならない。
・人間はただ単に生まれて、そして死んでいくことを肯定してはならない。意識的にも無意識的にも、他の動物を超越し、前代文明を超越し、かつまた自己をも超越していくことを欲している。
・「逆なれば仙なり」という言葉の真意は、人間はただ造物主のいのままに操られるだけではなく、その意に逆のことも許されているということだ。つまり人間が他の動物と違うところは造物主の真意に参加できる権利を持っていることだ。他の動物たちが自然に真意に従って太古のままの姿で生まれてきたのに対し、人間は淫欲・食欲・その他の欲望をコントロールして獣たちと同じ部分を超越し、異なった部分を拡張して大きく距離を隔ててきた。
・本来趣味というものは、本人が先天的にそなえている因子などから生じてきたものだから、これに素直に従ったほうがよい。