熊野、修験の道を往く 大峯奥駈完全踏破 藤田庄一著 |
だた、この修験道はおおらかなところがあり、あえて言えば自然信仰のようなところがありますね。
・「聖護院宮入峯・大峯奥駈全コース修行」現在奥駈を実施いている教団や寺院のほとんどは、北半分約100㌔の前鬼で下山してしまう。
・新客、すなわち初めて奥駆けに参加した者
「吉野なる かねの鳥居に手をかけて 阿陀の浄土に入るぞうれしき」
・「山伏とは真如法性の山に入り、無明煩悩の敵を降伏さするの義、修験道とは修行を積みてその験徳を顕すにて候」
・「人は本来、仏と同じ本性を持っている。ところが迷いの雲に覆われて悪い業をつくり本性を曇らせている。修行してこの曇を磨き、悪行を離れ、清らかな本心を発揮する。そして仏法の徳を顕すことが修験である。」
・役行者
・何より申し渡されたのは荷物を軽くすることだった。その、ひとつ、下着を減らす方法が印象に残った。雨に、濡れても宿坊や山小屋に入ったら着たままである程度乾かし、就寝時に乾いたものに着替える。翌朝、またその乾き切っていないものを再び着る。すぐ汗をかくので問題はない。もっとも臭くなることは別の問題だが。
・「だらすけは腹よりもまず顔に効き」ともあれ役行者以来、山伏と薬は切っても切れない関係、つまり薬を授けることも山伏の宗教活動の欠かせない部分だった。
・人間怖いと岩にへばりついてしまう。しっかりと岩に体重をのせ、両手と足でしっかり三点支持して登るように
・「覗きは捨身行の名残です。精神的な捨身は自分の我をすてることになる。」
・「山の行より、里の行」、山伏のユーモラスさは、捨身のような凄まじい宗教行為を土台にして形成されていることに気がつく。「ありがたや 西の覗きに懺悔して 弥陀の浄土に入るぞうれしき」
・仏教一般では五番目に不飲酒が入るが、飲酒は悪を誘発することがあるものの、悪そのものではない。
・従って、われわれは大峯山中を歩いているんじゃない。いわゆる曼荼羅の中を歩かせていただいている。あちこちに神や仏が在(おわ)します。その中を歩かせていただいているという気持ちを忘れたらいけないと思うのです。山即神、山即佛、そういう気持ちでおるわけです。
・山岳修行者は屈強な者というイメージがあるが、それは違う。体力的に劣る人も、病弱な人も、高齢者もいる。奥駈はそういう人も包含した集団の修行なのだ。
・240キロ踏破した仲間の肩を抱く「こんなに顔が小さくなっちゃって」娑婆にいた者からは、そう見えるらしい。
・「大峯で本当にほんまに修行したいなら、山伏の装束を着て歩かなあかん。心の重みが全然違う。形ととのえてこそ、ほんまの奥駈修行ができる。」
「これだよ、これ。大日如来様の教えや。神様から見たら、我々はこんな一瞬見えた世界に生きているんだよ。人間なんてちっぽけな生き物や。こんな一瞬だけの時間しかないのに、愚痴や文句ばかり言うてては、恥ずかしいな」
・「理屈なんてどうでもよくなるな」・・・「信不信をえらばず、浄不浄をきらわず」
・修験道は、日本宗教のなかでも他の宗教や宗派に対しても、質的に特異な寛容さがあると感じるからだ。その一つとして、奥駈のような中心的な行事に、得度の有無にかかわらず、さまざまな人を受け入れることがあげられる。修験道の寛容さは、教義や思想に基づくというよりも、自然を基盤にしている。修験道の倫理性は、自然のなかに神仏を感得し、高い位置から世界を眺め、一方、この身を謙虚に顧みる思考から生じる。グローバル化のなかの地球環境が危機にある現在、修験道が世界に寄与できる余地は大きい。奥駈道が世界遺産に指定された現代的な意味はここにあると思う。
・「修行すればするほど悟りから遠くなります。修行している時だけがすべてです」二十五年前に聞いた、比叡山の千日回峰修行者、故小林栄茂師の言葉が脳裡に蘇ってきた。