深沢七郎外伝 なかなか奥の深い人のようである |
最近になって楢山節考を読んだのは、高齢者の激増に耐えられるのかと思って、読む気になりました。
姨捨山伝説という、世にも恐ろしい話ではありますが、今後の高齢者対策?参考になるのかと思ったのです。
そして、ふと目に止まったのが、この本の新聞での広告でした。
気になり、読みことにしましたが、深沢七郎氏を全く理解してないことが、分かりました。
・結婚はしない。文壇には一切くみせず、深沢七世界の孤高を貫いた。「死ぬことは、清掃作業の一つですね」と常日頃から語っていた作家は、1987年8月18日、自宅の庭においた理髪店の椅子で眠るように亡くなった、73歳だった。
・「私がこの村の人たちを好きになったのは、生きていくぎりぎりの線上にわいた人情、風習ーそれこそ、原始の味も残されていると気がついたからである。」山梨県八代郡境川村大黒坂
・僕はギターで一つの曲を弾くのに、一ヵ月ぐらい習うことがあるんです。そんな時に小説の筋が浮かんで来るんです。
深沢が常に音(楽)にこだわっていたことがよくわかり、彼の小説は音の中から生まれてくるかのようである。
また、座談会の中で深沢は百姓への憧れと貧しい人しか書けないことを素直に語っている。
ーーともかく僕は百姓の仕事が好きなように、どうも貧しい人の方が好きですね。
・原爆と平和
原子力パン焼き器パンを焼きながら、
爺「なあ、婆さんやトースターが爆発して大都市が吹っ飛んだそうだ」原発へのラジカルな批判になっている。
・嶋中事件が起きて、無関係な二人の女性が死傷し、深沢さんは涙を流しながら記者会見した。「すべて私の責任、私の書き方が悪かったのです」と詫びた。とにかく、他人に迷惑をかけたことが、ひどくやりきれないふうであった。
・深沢の抱えた傷は深かった。会心の作ではなかった。にもかかわらず、自分が傷つくのでなく、愛してやまない無辜の一庶民が殺されてしまったのである。
・しかし、いずれにしても深沢が抱えたその傷が癒えることは、生涯なかった。死の二日前、養子になった満男に向かい「風流夢譚」をよろしく、といったという。
・盆栽も大好きで万年青を長期間楽しんだ。
・深沢は草取りが大好きだった。
・米を炊き、後は海苔や佃煮のようなもので済ませた。昼は乾麺。夜は好きな肉料理が多く、カツ丼などを特に好んだ。
・要するに自殺というのは自然淘汰だと思うのです。昆虫とか動物には、自殺はないでしょう。人間にあるというのは、人間だけにある自然淘汰ですよ。自殺は誰でもそうです。
・今は、巨竜やハチュー類を防ぐ必要もないし、国家だ、国民だなどという縄張りもない時代になってゆくのです。原子力破壊という大きな存在はこの地球をひとつにしてしまったのです。
・「わたしの人間滅亡というのは、人はこの地球にこびりついているアブラ虫と同じ状態だと思うのだ。だから、人間は繁栄する必要はないと思う」
・「深沢ギター教室」は、「音楽はリズムだけだ、思想なんていらない」と語っていた深沢が、音楽についてストレートに書いた、たった一冊の名著となった。
・嵐山は、(生きているのはひまつぶしの発刊によせて、)「深沢さんはアクマのようにすてきな人でした。ラブミー農場で、畑をたがやし、ブドウを育て、ギターをひいてくらしていました。そのじつ小説家なのです。深沢さんのすべての行動は小説につながっていくのです。
この本に出てくる深沢ぶしは、深沢さんのならではの処世訓です。いま、ぼくが生きているのは。深沢さんの教えのおかげです」
・立松和平「深沢さんの存在感はますます大きくなってきている。絶対に群れを作らない。商品文化と逆行している。・・・だから存在感が強くなる。書かれていないことを表現する凄い人。だれにも物真似ができない。・・・・だれにも媚びず、孤高の姿で生きている文学の人。常識には一切とらわれない実に強いもの・・・・」
・山梨放送「音楽夢譚・ギタリスト深沢七郎」で三上寛は語る、「深沢さんがどういう音楽を作っていたか知られていない。深沢さんが一番こだわっていた、人生としてのよりどころはギタリストとしての生き方だったのではないかと思える」
・2014年1月29日は、深沢の生誕100周年となる。
本の復刊