PHP養老孟司さんの話 参考になります! |
そしてこの要塞のなかで暮らしていると、いつしか人間が特別な存在だと勘違いしてくる。人間の身体もまた自然であることを忘れてしまうのです。私の身体にしても、生命の自然がつくりだしたものに過ぎません。何も好き好んでこんなふうに生まれてきたわけではない。森の木々と同じです。
何が言いたいのかというと、自然そのものには不安と恐怖が常につきまとつているということなのです。いくら管理しようとしても、人間の力には限界があります。大自然を管理することなどできるはずはありません。それでも人間は、大自然と向き合って生きなくてはならない。そこに必要となってくるのは、自然とともに生きるという覚悟です。
漁師たちは昔から海の側で暮らしを営んできた。台風や津波に襲われながらも、それでも海沿いで暮らすことを選択してきた。きっとそこには、海とともに生きるんだという覚悟があったのだと思います。
ほんとうの自然とは何なのか。そしてそれとどう向き合えばいいのか もう一度考える時が来ているような気がします。
私の祖母などは、十人の子供をもうけましたが、そのうち成入して祖母の葬式に出ることができたのは四人だけです。半分以上は親よりも先に旅立ってしまった。だからこそ母親たちは、今、日の前にいる我が子に精いっぱいの愛情を注いだのです. この子が二十歳を迎えられるかどうかわからない。早くに寿命がやってくるかもしれないぃだから今という生きている瞬間を精いっぱいに大切にする。そういう覚悟のなかで暮らしていたのでしょう。
今は、子供が大人になるのは当たり前と考えています。その前提に立って、我が子を叱咤激励している。「今、一生懸命に勉強しておけば、いい大学に行けて、いい会社に就職できるのよ」。小学生にも満たない子供に言い聞かせているこそれは、子供が必ずすくすくと育って、大人になるということが前提にあるからでしょう。
しかし、その前提は一〇〇%ではありませんら人間が自然の存在である限り、いつどうなるかはわかりません。突然の病や不慮の事故も十分に起こりうる。人間にとって一〇〇%のこととは、死ぬこと以外には一つもないのです。
死を意識することと、自然を意識することは同じことだと思います。死を考えることと、自然の恐怖を考えることは、どこかでつながっている。そしてもうひとつ付け加えるなら、自然とは、あくまでも中立のものなのです。
二つの生き方をもってみよう
都会と田合の両方に軸足を置きながら生活をする。私はそういう提案をずっとしてきましたっ特に三十代や四十代の働き盛りの人こそ、こうした「三足の車軽」を履くことをおすすめします。一生をかけて歩むべき「この道」。 一生住み続けられる「この場所」。それは簡単に見つけられるものではありません。ならばいくつかの「この道」を探せばいい。二足の草鞋をはくことで、また違う風景が見せてくるかもしれません。