水都大阪を考える会で、大橋房太郎さんを知る |
関一(せきはじめ)市長が目指した都市計画の中でも象徴的な存在である御堂筋は、昭和12年5月11日に完成しました。しかしその完成を見ることなく、昭和10年1月26日、61年4ヶ月の生涯を閉じています。
忘れてはならないのが、大橋房太郎さんだと紹介がありました。
堤防基盤整備にも尽力 淀川治水に奔走した府議
明治29(1896)年3月、大阪市民の長年の悲願だった淀川改良工事予算案は、衆議院を通過するが、これには寝食忘れて奔走した大橋房太郎の尽力があったことを、大阪府民は永遠に忘れてはならない。
彼は万延元(60)年放出(はなてん)(大阪市鶴見区)の油・肥料商大橋実蔵の四男に生まれた。明法館(関西大学)で法律を学び、東京に出て鳩山和夫の書生になり政治家を目指すが、明治18年の淀川洪水で帰郷、生家を含め1万数千戸の流失、数百人の溺死(できし)という惨事に仰天、生涯淀川治水に尽力しようと決意する。お米屋さんを開いて生計を立てるが、話は淀川のことばかり、淀川屋と呼ばれる。
同20年、大阪府議会議員に当選、以降7期26年間勤めるが、政見も公約も淀川治水のことばかり。大阪府知事西村捨三が沖野忠雄に改修企画と予算作成を命じたところ、800万円を超える金額に府議会は驚愕(きょうがく)、反対、反対の大合唱となった。その中でたった1人賛成したのが房太郎だ。
捨三が農商務次官に転身した後も同志を募り、後任知事山田信道の尻をたたき各界に陳情、捨三を追って上京。紹介状を書かせて国会議員たちに夜討ち朝駆けをかけ、さすがの捨三も辟易(へきえき)したという。面会時間も相手の思惑も気にせず、会ったが最後袖をつかんで放さず、一方的にしゃべりまくった。
同29年3月、淀川改良工事予算案は衆議院を通過する。傍聴席にいた房太郎は「淀川万歳!」と大声で連呼、守衛につまみ出された話は有名だ。しかし彼の苦労はこれからである。工事に付帯した私有地1146町歩の買収は、まことに難事であった。誰でも先祖伝来の土地は手放したくない。
「お前、土地で大もうけする魂胆やろ」「大阪府の犬大橋をぶっ殺せ」と罵声(ばせい)を浴びせられ、暴漢に襲われ、警官の護衛なしには歩けなくなる。
かつて房太郎は、大阪市内の屎尿(しにょう)をあるアンモニア会社に年間50万円で払い下げようとした大阪市議会に、農民の死活にかかわると乱入し、逮捕された経歴がある。私利私欲の全くない清廉潔白な人柄だけに、「大阪の犬」との暴言は、どんなにこたえたであろう。
翌30年秋から909万4千円の巨額予算で工事は始まるが、同37年日露戦争が勃発(ぼっぱつ)、緊縮財政を命じられ、作業員90%が解雇され、搬送用の曳船(ひきぶね)まで軍は徴発、資材調達も行き詰まる。房太郎は顔面朱に染め軍幹部に陳情、汝(なんじ)は売国奴(ばいこくど)か、戦争と淀川のどちらが大事じゃと怒鳴られる。同42年工事は竣工(しゅんこう)するが、彼は土砂流入を防ぐため、「淀川低水工事」にとりかかるよう猛運動を続けた。
それでも自然は暴威を振るう。大正6(1917)年の大洪水では、行政は無論、房太郎や仲間たちも茫然自失(ぼうぜんじしつ)した。だがくじけない彼は、号泣した後、「淀川再改修既成同盟」を結成。同12年から再工事に着手、これが現在の淀川堤防の基盤になっている。
房太郎は金運には恵まれなかった。放出の自宅はとっくに借金のかたに取られ、長瀬や生野の借家を転々、ますます小さな居宅に移り住んだ。
昭和10(35)年、6月、梅雨期で毎日降り続く雨音を聞きながら、「淀川は大丈夫やろか」とうわごとのように繰り返しながら、75歳で世を去った。
四条畷神社(大阪府四条畷市)に、彼の功績をたたえた「治水翁紀功碑」が建つ。また大阪市鶴見区放出東にある「寝屋川改修記念碑」にも、「寝屋川改修工事は昭和2(1927)年完成するが、府議会議員大橋房太郎の尽力が大きい」といった内容が記されている。 三善 貞司 (地域史研究者)