久しぶりの内田樹研究室 |
「ロスト・ジェネレーション」論では、さらに進んで、「社会的に下位に位置づけられた人々は、社会の実相をそうでない人々よりも正しく把握しており、それゆえこの社会がどうあるべきかについて、より適切なソリューションを知っている」という「もっとも虐げられたものがもっとも明察的である」という左翼的知性論を語り出した。
この知性論を採用すると、階層下位にある人は「社会がどうあるべきか、自分がどうふるまうべきかについて、他の人たちに教えてもらうことは何もない」ということになる。
「現に収奪され、自己実現を阻害されているがゆえに、この社会の実相を誰よりも熟知している」と宣言してしまったものは、それによって「私には『教えること』はあるが『学ぶこと』はない」という宣言にも同時に署名したことになる。
しかし、階層社会とはいえ、一定の流動性は担保されており、当たり前のことだが、そのパイプラインはただ「学ぶことができる人間」にだけ開かれているのである。
「私には学ぶべきことはない」と宣言してしまったものは、まさにその宣言によって社会の流動性を停止させ、社会の階層化と、階層下位への位置づけをすすんで受け入れることになる。
「学ぶもの」にとって社会は流動的であり、「学ぶことを拒否するもの」にとって社会は停滞的である。
「学ぶことを拒否するもの」が増えるほどに社会は流動性を失って、こわばり、石化する。
この趨勢をどこかで停止させなければならない。
それが苅谷さんの洞察であり、私もそれに深く同意するのである。
来年の3月で定年を迎えられるのですね、その後は、どうされるつもりなんでしょうか?