やがて消えゆくわが身なら 池田清彦著 |
・小学生の頃、夜中にふと目が醒めて、やがて自分も死んでしまうんだと思ったら、恐ろしくて涙が出てきた経験をお持ちの方は案外多いのではないだろうか。
・死んだら無に帰して未来永劫生き返ることが出来ないということがなぜそんなに恐ろしいのだろう。・・・人が自身の死に純粋な恐怖を感じるようになったのは、脳が巨大化したことによる副産物なのだ。特に大脳前頭葉が巨大になり自我という機能を有するようになったことと関係している。
・無限の命をもつというのは、恐ろしく退屈なことではないだろうか。無限のいのちであるならば、一日の楽しみや悲しみがどんなにわずかであろうとも、ゼロでない限り無限倍すれば等しく無限になってしまう。有限の命であればこそ、今日どれだけ楽しかったかは意義あるものになる。
・人生おなじ七十を生きるにしても、次々に新しい経験をすれば体感時間は長くなると思う。体感時間は想起できる記憶の量に比例しているのかもしれない。
・七十歳で死んでも、八十、九十歳で死んでも、実時間はともかく体感時間できる人生の長さはさして違わないということもあり得る。
<追加>
・健康診断の結果が少しでも悪いと、・・・薬をもらわないと気がすまない人も多い。身体の状態がそれほど、変化したわけではないだろうに、不思議な話ではないか。
・精密検査をすれば、中年以降ならどんな人でも、一箇所や二箇所異常が見つかるはずだ。医者には身体の具合が悪くなってから行けばよいのだ。
・重要なことは、どんな才能も試してみなければ開花しないことだ。
・人は大げさに言えば、自分なりの倫理、という物語を生きる動物であるから、利害に左右されて首尾一貫した物語を構築できないような状況になると自分の人生を楽しめないのではないかと、私は思う。
・自分の矜持に照らして、怒るべき時にだけ、きっちりと怒ることができるようになれば、人間はストレスもなく、上品に生きられるのかもしれない。