カスバの女の作詞者 大高さんの逸話 泣かせますね その1 |
「何が私にあったとしても、いい歌は、いい歌だから」。妹の笠松節子さんにそんなことを言った。
傷ついて歌謡界を引退したエトだったが、「カスバの女」は大好きだった。「自分の歌、という自負もありました」と笠松さんは言う。
エトはこの歌を、広げたかった。歌謡教室や東京・青山の友人のパブを手伝いながら歌い続けた。観光バスガイドの指導員が全国から集まり、都内で講習会を開く話を聞くと、歌唱指導を買って出た。これなら、一度でたくさんの人に歌が伝わ‘る。講師を10年間続け、「カスバの女」で指導を繰り返した。エトに教えられた指導員は若いガイドたちにこの歌を伝え、車内の客が口ずさむ。いつか、夜の街の愛唱歌となり、レコード業界にはね返った。
作詞の大高ひさをは、そんなエトにエールを送り続ける。
歌謡教室の発表会(68年)のプログラムで、こんな巻頭言を寄せている。
「引退の後も『カスバの女』を恋人のように愛し、歌い続けてくれた。エトさんの歌謡曲に対する根強い愛情と信念には頭が下がる思いです。 作詞家大高ひさを」
教室の開設をエトに強くすすめ、68年からの懐メロプームではテしビ局に働きかけ、出演を実現させた。
音楽雑誌のアンケート元年ゝで人生の信条についてこう答えている。「不遇のベテラン歌手のために心血を注ぎたい」。「ベテラン」とはエトのことだった。
「父は義理と人情の人でした」と月彦さんが言った。 大高が小学生の頃、詩の才能を認め、励まし続けた担任の先生がいた。「少年倶楽部」に投稿した時が入選した時の思い出を語っている。